-
サマリー
あらすじ・解説
今回は、一年半ほどやってきた”宮沢賢治シリーズ”の最終回です。これまで長々と話してきた賢治の人生ですが、ついに終わりを迎えることとなります。 =========================================== 【内容】 0:00 【訂正】賢治が東北砕石工場で働いていたのは、「1年間」ではなく「1931年2月〜9月の7ヶ月」でした。盛りました。失礼しました。 1:44 農業用石灰石粉の販売は4月頃にひと段落。しかし工場は1年中稼働している。そこで石灰石粉で建築用の壁材を作り、営業活動を開始。 4:13 肥料や壁材の営業に奔走していた9月の話。岩手県の肥料展覧会へ、9/11~17で出張した賢治。しかし、仕事を始めた時から愛用している仕事用メモ帳には出張期間のうち4日間の事しか書かれておらず、残りの3日間は疲労困憊で出れなかったのではないか、という説もある。 6:13 仕事用のメモ帳の名前のクイズが、前回のSpotifyにありますのでよろしくです。 6:45 岩手県への出張で疲労困憊の中、東京へ9/21に出張するが、出張先の旅館で高熱を出してしまう。流石にもうダメかもと思い、遺書を認め、最期に父の声を聞こうと政治郎に電話をいれると、政治郎はとりあえず賢治が花巻にすぐ帰れるように手配してくれた。 そこからは2年間、結核で闘病生活へ。 10:43 実は、22歳の時に賢治は「自分の命はあと15年です」と言っていて、本当に15年後に亡くなったという。なんということでしょう、、、 12:15 闘病中も東北砕石工場のことは気にかけていたし、作品を書いたり、推敲したりもしていた。『グスコーブドリの伝記』『風の又三郎』『銀河鉄道の夜』『セロ弾きのゴーシュ』など。 15:59 そして、東京出張で高熱出して遺書を書いた、ちょうど2年後の1933年9月21日に亡くなりました。 16:45 亡くなる10日前に元教え子の柳原さんに出した手紙の紹介。賢治はまだまだやってやるぞと思っていた。自分の失敗について。柳原さんはそうならないようにね。生きていきましょう! 22:57 賢治の遺言は、『法華経を1000部作ってほしい』だった。それを聞いて、政治郎は「お前は大した偉いものだ」と言った。すると賢治は、清六達の方を向いて「俺もとうとう父さんに褒められた」と笑ったという。賢治は、ずっと親に申し訳ないと思っていたようです。 25:40 政治郎と賢治も宗派の違いでいろいろありましたねぇ。ちなみに1951年に宮沢家は日蓮宗に改宗しています。 26:55 賢治の最期は、みんなに見守られながら、少し水を飲んで、身体を自分で脱脂綿で拭いて、その脱脂綿がポロッと落ちた時には、もう息を引き取っていたそう。 27:34 賢治の最期の言葉は、身体を脱脂綿で拭いてる時の「あぁ良い気持ちだ」だったのではないか、と言われている。37歳でした。最期がこの言葉だったら、なんか、とにかく、良いですね。 29:10 【りょうの感想】理想の高さに見合う、賢治の行動力を見習いたい。あと、天ぷら蕎麦が食べたい。 32:14 【のどかの感想】母・イチが、賢治の幼少期にずっと言っていた「人というものは人のために、何かをしてあげるために生まれてきたのす」という言葉に、賢治の生き方が凝縮されていると思う。 参考にした本 『科学者としての宮沢賢治』 斎藤文一 著 『宮沢賢治のちから』 山下聖美 著 『図説 宮沢賢治』 天沢退二郎/栗原敦/杉浦静 編 『兄のトランク』 宮沢清六 著 ============================================ 【のっそのっそについて】 伊豆の2人。 このラヂオや、移動式のブックカフェNosso Nossoを営業したりして糊口をしのいでいます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【のっそのっそのSNS】 Instagram→ https://instagram.com/nossoxnosso546 Twitter→ https://twitter.com/nossonosso3 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 【おたよりフォーム】 https://forms.gle/...