エピソード

  • 2024.3.11放送 復元納棺師 笹原留似子 - 復元納棺師 笹原留似子Part3
    2024/03/13
    死傷者行方不明者数2万8千人超、過去に例のない甚大な被害をもたらした 『東日本大震災』。各地を襲った津波の高さは最大で14.8mに及び、 この災害で亡くなった方の死因は90%超が溺死と言われています。 ご遺体が安置所へ次々と運び込まれましたが、損傷が激しいこともあり身元確認に 時間を要し、保管は長引き腐敗も進みました。 事故や災害などで傷ついたご遺体を、生前の姿に重ね合わせ復元する『復元納棺師』。 笹原留似子さんは岩手県北上市で復元納棺師として活動。看護学校の特別講師として グリーフケア、グリーフケアに伴う接遇講師も担当。東日本大震災では遺族や機関関係者から 依頼を受け遺体安置所をまわり、5ヶ月間で300人を超える「復元ボランティア」として奔走しました。 笹原さんが納棺師として活動が始まったのは2007年。交通事故によって亡くなったご遺体を家族に引き渡すにあたり、遺族が死という現実を受け止め故人を見送れるよう、 ご遺体をできるだけ生前と同じ顔、微笑みを浮かべた表情に戻す「復元」を始めたことが きっかけです。家族のお別れの時間を守るため「ご遺体に微笑みを取り戻す」、 何度も繰り返すうちに、笹原さんは「復元納棺師」と呼ばれるようになりました。 東日本大震災のとき、遺体安置所で小さな亡骸と出会った笹原さん。「身元不明者」で あったことから触れることすらできませんでしたが、「あの子を戻してあげられなかった」という後悔は、その後の復元ボランティアとして活動に繋がっていきました。 「どんな状態のご遺体でも、亡くなった方とその家族のためお別れの時間を生み出す」、 その時間は尊いものであり、遺族が『死』を受け入れるためには必要なことだと、 笹原さんは語ります。
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    16 分
  • 2024.3.11放送 復元納棺師 笹原留似子 - 復元納棺師 笹原留似子Part2
    2024/03/13
    死傷者行方不明者数2万8千人超、過去に例のない甚大な被害をもたらした 『東日本大震災』。各地を襲った津波の高さは最大で14.8mに及び、 この災害で亡くなった方の死因は90%超が溺死と言われています。 ご遺体が安置所へ次々と運び込まれましたが、損傷が激しいこともあり身元確認に 時間を要し、保管は長引き腐敗も進みました。 事故や災害などで傷ついたご遺体を、生前の姿に重ね合わせ復元する『復元納棺師』。 笹原留似子さんは岩手県北上市で復元納棺師として活動。看護学校の特別講師として グリーフケア、グリーフケアに伴う接遇講師も担当。東日本大震災では遺族や機関関係者から 依頼を受け遺体安置所をまわり、5ヶ月間で300人を超える「復元ボランティア」として奔走しました。 笹原さんが納棺師として活動が始まったのは2007年。交通事故によって亡くなったご遺体を家族に引き渡すにあたり、遺族が死という現実を受け止め故人を見送れるよう、 ご遺体をできるだけ生前と同じ顔、微笑みを浮かべた表情に戻す「復元」を始めたことが きっかけです。家族のお別れの時間を守るため「ご遺体に微笑みを取り戻す」、 何度も繰り返すうちに、笹原さんは「復元納棺師」と呼ばれるようになりました。 東日本大震災のとき、遺体安置所で小さな亡骸と出会った笹原さん。「身元不明者」で あったことから触れることすらできませんでしたが、「あの子を戻してあげられなかった」という後悔は、その後の復元ボランティアとして活動に繋がっていきました。 「どんな状態のご遺体でも、亡くなった方とその家族のためお別れの時間を生み出す」、 その時間は尊いものであり、遺族が『死』を受け入れるためには必要なことだと、 笹原さんは語ります。
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    14 分
  • 2024.3.11放送 復元納棺師 笹原留似子 - 復元納棺師 笹原留似子Part1
    2024/03/13
    死傷者行方不明者数2万8千人超、過去に例のない甚大な被害をもたらした 『東日本大震災』。各地を襲った津波の高さは最大で14.8mに及び、 この災害で亡くなった方の死因は90%超が溺死と言われています。 ご遺体が安置所へ次々と運び込まれましたが、損傷が激しいこともあり身元確認に 時間を要し、保管は長引き腐敗も進みました。 事故や災害などで傷ついたご遺体を、生前の姿に重ね合わせ復元する『復元納棺師』。 笹原留似子さんは岩手県北上市で復元納棺師として活動。看護学校の特別講師として グリーフケア、グリーフケアに伴う接遇講師も担当。東日本大震災では遺族や機関関係者から 依頼を受け遺体安置所をまわり、5ヶ月間で300人を超える「復元ボランティア」として奔走しました。 笹原さんが納棺師として活動が始まったのは2007年。交通事故によって亡くなったご遺体を家族に引き渡すにあたり、遺族が死という現実を受け止め故人を見送れるよう、 ご遺体をできるだけ生前と同じ顔、微笑みを浮かべた表情に戻す「復元」を始めたことが きっかけです。家族のお別れの時間を守るため「ご遺体に微笑みを取り戻す」、 何度も繰り返すうちに、笹原さんは「復元納棺師」と呼ばれるようになりました。 東日本大震災のとき、遺体安置所で小さな亡骸と出会った笹原さん。「身元不明者」で あったことから触れることすらできませんでしたが、「あの子を戻してあげられなかった」という後悔は、その後の復元ボランティアとして活動に繋がっていきました。 「どんな状態のご遺体でも、亡くなった方とその家族のためお別れの時間を生み出す」、 その時間は尊いものであり、遺族が『死』を受け入れるためには必要なことだと、 笹原さんは語ります。
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    23 分
  • 2023.7.30放送 国境なき医師団・看護師 白川優子 - 国境なき医師団・看護師 白川優子Part3
    2023/09/06
    紛争や災害、貧困などによって命の危機に瀕している人びとに医療を提供する、非営利で国際的な民間の医療・人道援助団体、それが「国境なき医師団(Médecins Sans Frontières 略称 MSF)」です。小学生のころ国境なき医師団の存在をテレビで知った白川優子さん。国境なき医師団の活動はその後憧れの存在となりました。周囲が反対するなか、商業高校から看護学校に入学するという珍しい経歴を持ち、36歳の時に国境なき医師団に採用され、最初にスリランカに派遣されます。戦争が終わってはいたものの、本当に医療が必要としている場所に医療が届いていない現実を目の当たりし、改めて衝撃を受けます。そして一つの医療チーム、一人の看護師の存在が現地医療にとっては大きな存在であること実感。看護師として活動する自分が、世界に貢献できている充実感はその後も国境なき医師団で活動する励みとなりました。その後、パキスタン、 イエメン、シリア、南スーダン、イラクなど、空爆や銃撃の音が鳴り響くさまざまな紛争地域に派遣されました。 現在は国境なき医師団の採用スタッフとして活動する白川さん。医師や看護師だけでなく、現地で医療活動を支える様々な非医療スタッフも大事な存在と語ります。「医療は一つのチームで行うもの」、必要とされている場所に医療が届くように、自身がこれまで経験した活動を伝える白川さん。今後も白川さんの国境なき医師団での活動は続きます。
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    13 分
  • 2023.8.13放送 戦後78 年 東京大空襲を語る 藤間宏夫 - 東京大空襲を語る 藤間宏夫Part3
    2023/09/06
    東京大空襲は太平洋戦争(第二次世界大戦)末期に、アメリカにより行われた東京都区部に対する大量無差別の航空爆撃作戦。東京は100回を超える空襲を受け、特に1945年3月10日になされた夜間空襲は大規模のものとなり、この日だけで9万5千人を超える方が亡くなり、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ、太平洋戦争中の日本における大戦災となりました。6歳の時東京大空襲に遭った藤間宏夫さん。今年(2023年)で85歳を迎えます。両親が制服やランドセルなどを準備し、入学の日を待ちわびていたそのとき東京大空襲に見舞われました。爆撃機B29が約300機も襲来し、数多くの焼夷弾を上空から投下され東京下町は焦土化。藤間さんは、家族と火傷を負いながらも逃げ続けました。親戚の家に身を寄せ生活し始めたものの、再び空襲に遭い生活排水が流れるドブの中に避難。九死に一生を得ます。その後、静岡県牧之原に疎開した先でも空襲に襲われ、生きていくのがやっとでした。 8 月15日、昭和天皇による玉音放送を聴き、憤りを覚えた藤間さん。「家が消失してしまったのになぜだ!」「幼友達が死んでしまったのになぜだ!」「近所の小母さんらが死んだのになぜだ!」唇をかみしめ、心の中で叫び続けました。藤間さんが空襲体験を語り始めたのは78歳の時。それまでは戦争体験は思い出したくない、語りたくない出来事でした。戦争を知らない人たちが増えていくなか、その事実を知らないがため平和を手放してしまう危険が迫っていることを感じ、自身に「事実を伝える責任」があることを受け入れました。いまも「東京大空襲・戦災資料センター」を中心に、自身の体験を語り講演も行っている藤間さん。国民・市民が戦争に巻き込まれることがないよう、どんな理由があっても戦争を起こしてはならないと訴え続けています。
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    12 分
  • 2023.7.30放送 国境なき医師団・看護師 白川優子 - 国境なき医師団・看護師 白川優子Part2
    2023/09/06
    紛争や災害、貧困などによって命の危機に瀕している人びとに医療を提供する、非営利で国際的な民間の医療・人道援助団体、それが「国境なき医師団(Médecins Sans Frontières 略称 MSF)」です。小学生のころ国境なき医師団の存在をテレビで知った白川優子さん。国境なき医師団の活動はその後憧れの存在となりました。周囲が反対するなか、商業高校から看護学校に入学するという珍しい経歴を持ち、36歳の時に国境なき医師団に採用され、最初にスリランカに派遣されます。戦争が終わってはいたものの、本当に医療が必要としている場所に医療が届いていない現実を目の当たりし、改めて衝撃を受けます。そして一つの医療チーム、一人の看護師の存在が現地医療にとっては大きな存在であること実感。看護師として活動する自分が、世界に貢献できている充実感はその後も国境なき医師団で活動する励みとなりました。その後、パキスタン、 イエメン、シリア、南スーダン、イラクなど、空爆や銃撃の音が鳴り響くさまざまな紛争地域に派遣されました。 現在は国境なき医師団の採用スタッフとして活動する白川さん。医師や看護師だけでなく、現地で医療活動を支える様々な非医療スタッフも大事な存在と語ります。「医療は一つのチームで行うもの」、必要とされている場所に医療が届くように、自身がこれまで経験した活動を伝える白川さん。今後も白川さんの国境なき医師団での活動は続きます。
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    17 分
  • 2023.8.13放送 戦後78 年 東京大空襲を語る 藤間宏夫 - 東京大空襲を語る 藤間宏夫Part2
    2023/09/06
    東京大空襲は太平洋戦争(第二次世界大戦)末期に、アメリカにより行われた東京都区部に対する大量無差別の航空爆撃作戦。東京は100回を超える空襲を受け、特に1945年3月10日になされた夜間空襲は大規模のものとなり、この日だけで9万5千人を超える方が亡くなり、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ、太平洋戦争中の日本における大戦災となりました。6歳の時東京大空襲に遭った藤間宏夫さん。今年(2023年)で85歳を迎えます。両親が制服やランドセルなどを準備し、入学の日を待ちわびていたそのとき東京大空襲に見舞われました。爆撃機B29が約300機も襲来し、数多くの焼夷弾を上空から投下され東京下町は焦土化。藤間さんは、家族と火傷を負いながらも逃げ続けました。親戚の家に身を寄せ生活し始めたものの、再び空襲に遭い生活排水が流れるドブの中に避難。九死に一生を得ます。その後、静岡県牧之原に疎開した先でも空襲に襲われ、生きていくのがやっとでした。 8 月15日、昭和天皇による玉音放送を聴き、憤りを覚えた藤間さん。「家が消失してしまったのになぜだ!」「幼友達が死んでしまったのになぜだ!」「近所の小母さんらが死んだのになぜだ!」唇をかみしめ、心の中で叫び続けました。藤間さんが空襲体験を語り始めたのは78歳の時。それまでは戦争体験は思い出したくない、語りたくない出来事でした。戦争を知らない人たちが増えていくなか、その事実を知らないがため平和を手放してしまう危険が迫っていることを感じ、自身に「事実を伝える責任」があることを受け入れました。いまも「東京大空襲・戦災資料センター」を中心に、自身の体験を語り講演も行っている藤間さん。国民・市民が戦争に巻き込まれることがないよう、どんな理由があっても戦争を起こしてはならないと訴え続けています。
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    21 分
  • 2023.8.13放送 戦後78 年 東京大空襲を語る 藤間宏夫 - 東京大空襲を語る 藤間宏夫Part1
    2023/09/06
    東京大空襲は太平洋戦争(第二次世界大戦)末期に、アメリカにより行われた東京都区部に対する大量無差別の航空爆撃作戦。東京は100回を超える空襲を受け、特に1945年3月10日になされた夜間空襲は大規模のものとなり、この日だけで9万5千人を超える方が亡くなり、沖縄戦や広島・長崎への原爆投下と並ぶ、太平洋戦争中の日本における大戦災となりました。6歳の時東京大空襲に遭った藤間宏夫さん。今年(2023年)で85歳を迎えます。両親が制服やランドセルなどを準備し、入学の日を待ちわびていたそのとき東京大空襲に見舞われました。爆撃機B29が約300機も襲来し、数多くの焼夷弾を上空から投下され東京下町は焦土化。藤間さんは、家族と火傷を負いながらも逃げ続けました。親戚の家に身を寄せ生活し始めたものの、再び空襲に遭い生活排水が流れるドブの中に避難。九死に一生を得ます。その後、静岡県牧之原に疎開した先でも空襲に襲われ、生きていくのがやっとでした。 8 月15日、昭和天皇による玉音放送を聴き、憤りを覚えた藤間さん。「家が消失してしまったのになぜだ!」「幼友達が死んでしまったのになぜだ!」「近所の小母さんらが死んだのになぜだ!」唇をかみしめ、心の中で叫び続けました。藤間さんが空襲体験を語り始めたのは78歳の時。それまでは戦争体験は思い出したくない、語りたくない出来事でした。戦争を知らない人たちが増えていくなか、その事実を知らないがため平和を手放してしまう危険が迫っていることを感じ、自身に「事実を伝える責任」があることを受け入れました。いまも「東京大空襲・戦災資料センター」を中心に、自身の体験を語り講演も行っている藤間さん。国民・市民が戦争に巻き込まれることがないよう、どんな理由があっても戦争を起こしてはならないと訴え続けています。
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    18 分