• 天理教の時間「家族円満」

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天理教の時間「家族円満」

著者: TENRIKYO
  • サマリー

  • 心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。
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あらすじ・解説

心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。
エピソード
  • おさづけの不思議
    2025/03/28
    おさづけの不思議 タイ在住  野口 信也 私は結婚して3年後、タイの大学院で学ぶため、三度目の渡泰をしました。その時も、以前と同じように病気の方の平癒を願う「おさづけ」を取り次ぐため、病気の方のお宅や病院を訪れていました。特にがんや脳腫瘍など、命に関わる病気の方の所へは毎日通っていたので、大学で講義を受けた後、3~4カ所は行く所がありました。 毎日大渋滞が起こるタイには、日本にはないバイクタクシーというものがあります。渋滞をすり抜けて走ってくれるので、4~5時間かかるところを1~2時間程度で移動することができ、たいへん重宝していました。 タイでの最初の2年間、大学へ入って3年半、そして大学院の時と、こうしたことを6年近くも続けていると、時には全く知らない方から「病人がいるので来てもらえないか」という電話がかかってくることもありました。人口およそ600万人を擁するバンコクであっても、少しずつでも続けることで、知らぬ間に色々なつながりができるのだなと感じました。 大学院を修了する少し前のことです。大学の頃からの友人K君から、「お付き合いしている彼女の祖母が危篤の状態だ。おそらく葬儀が明日から一週間行われるので参列してほしい。このおばあさんには、何とか自分たちの結婚式に出席してもらいたいと思っていたけど…」と電話が入りました。 このおばあさんは99歳で入退院を何度も繰り返していて、いよいよなので親族を呼ぶよう医師に言われたそうです。まだご存命ということなので、私はすぐ病院にかけつけ、最後となるであろうおさづけをさせてもらいました。 すると、その夜K君から、明日の葬儀は中止でおばあさんは自宅療養することになったとの連絡が。翌日から帰国するまで、毎日おばあさんのおさづけに通い、K君と孫の結婚式にも出席してもらうことができました。 その後、日本に帰国してから7年ほど経った冬に、タイから一本の電話が入りました。K君からで、彼の義理の姉が良性腫瘍の摘出のため開腹手術をしたところ、悪性腫瘍で腹部全体が侵されていて、卵巣を取るなどできる限りの処置をしたが、もう手の施しようがないとのこと。医師からは「あと3カ月、長くても半年です」と宣告されたそうです。 病人さんのご主人が電話に出られ、「私たち夫婦と娘一人、いつまでも仲良く暮らしていきたい、何とか救けて下さい」と言われました。 ご主人は以前のおばあさんのおたすけのことを知っておられ、真っ先に天理教の神様にたすけを求めてこられたようですが、私はそういう切羽詰まった場面にとても弱く、どうしたら良いか焦っていました。 それでもおさづけをさせてもらうしかないと思い直し、勤務先である天理教海外部の上司に3日間だけ休暇をお願いすると、「人をたすけるためなら何日でも構わない」と許可を下さったので、すぐタイへ出発しました。 飛行機の中で、ふと『教祖伝逸話篇』に書かれている、当時の最も丁寧だと思われる病気平癒の方法を思い出しました。「座りづとめ」と「十二下りのてをどり」を一座とし、一日に昼三座、夜三座、これを三日間行う方法です。 以前、海外の学生がその逸話篇を呼んで、一日6回のおつとめを実際にやってみようと試みたことがありました。私がタイへ到着するのが朝の5時で、帰るのは二日後の夜中の12時ですから、ちょうど丸三日間。よし、これで行こうと決めました。 空港へ到着し、その足で友人宅へ行き一度目のおさづけ。その後すぐバスで一時間半かけて神様を祀っているタイ出張所へ。そこで一回目の座りづとめと十二下りのてをどり。所要時間は約一時間。その後また友人宅へ戻り、病人さんに二度目のおさづけ。そしてまたタイ出張所へ行き、二回目の「座りづとめと十二下りのてをどり」。こうして3回、4回と繰り返しました。 さらに、夜から朝にかけての時間は病人さんのいるお宅へ泊めてもらい、その一室で5回目、6回目をつとめました。これを三日間、6回、6回、6回と繰り返しつとめ、三日目の夜中過ぎに挨拶もそこそこに帰国。おたすけ三昧の...
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    1分未満
  • 私は100倍嬉しいです
    2025/03/21
    私は100倍嬉しいです 大阪府在住  山本 達則 私が教会長になって、4、5年経った頃のことです。私と同年代の男性の信者さんがおられました。お互い結婚の時期も近く、長男同士が同級生で、私の長女とその方の次男が同級生でした。住まいが近いこともあって、子供たち同士、きょうだいのように仲良くしていました。 その方の奥さんは、天理教のことは全く知らない方でしたが、信仰家庭に嫁いだということで、信仰について積極的に学び、教会の用事も進んで手伝ってくれていました。その奥さんが、ただ一度だけ、私に怒りを露わにしてきたことがありました。 私は教会長に就任した当初、会長を務める一方、世間で仕事を持っていました。しかし、ある時そのことに行き詰まりを感じ、夫婦で相談した結果、仕事を辞めるという選択をしました。すると、私のその決断に対して、奥さんがこう言われたのです。 「会長さんは無責任過ぎると思います。せめて子供たちが父親の仕事を理解して納得できるまでは、今の形で育ててあげるべきだと思います。子供たちが可愛そうです」。それは、私の子供たちのことを思っての怒りでした。 その頃は私もそれなりの収入があったので、時には家族で外食に行ったり、世間並みに子供たちに流行の物を買ってやることも出来ました。しかし、仕事を辞めれば、それまで子供たちにしていたことが出来なくなるのは火を見るより明らかでした。奥さんは、私たち夫婦のその決断が理解できなかったのです。 当時、まだ若かった私は、必死になって自分の思いを説明しました。 「欲しい物が与えられる喜び、行きたい所に行ける喜びは確かにあります。ある意味、親として子供に出来る限りそうしてあげるべきだという思いもあります。でも、欲しい物が与えられない、願い通りにならないということの中にも喜びはあると思うのです。うちの子供たちには、そのような喜びを感じてもらえるように育てていきたいんです」。 奥さんにはそれでも納得して頂けず、ギクシャクした感じが続きましたが、教会へは参拝に来てくれていました。 このご夫婦には二人の息子さんがいて、次男はダウン症を患っていました。ダウン症は特定疾患にも指定されている、確立された治療法のない病気で、子供は様々なリスクを背負って生まれてきますが、ご夫婦はそのことを受け入れ、一生懸命に育てていました。 私が仕事を辞めて数年が経った頃、ある日の教会行事に奥さんがダウン症の次男を連れて参加していました。食事の時間になり、私は部屋の端から様子を見ていたのですが、息子さんは、やはり健常な子供に比べて発育も遅れ気味で、偏食もきつく、4歳になってもまだお箸は使えず、フォークやスプーンの使い方も覚束ない感じで、常に奥さんがそばに寄り添って食事をしていました。 私が「大変やね」と声を掛けると、奥さんは私の方を振り向いて、満面の笑顔で「これ、すごく楽しいんですよ」と答えてくれました。 私はあまりの笑顔に驚いてしまい、「そうなんやね」と返すだけでその場の会話は終わりました。食事のあと、子供たちが喜々として遊んでいる様子を見ていた私に、奥さんがあらためて話しかけてくれました。 「会長さん。会長さんが仕事をやめた時、私が何て言ったか覚えてますか?子供たちに対して無責任だって言ったんです。だって、ものすごく腹が立ったから。けど、あの時、会長さんが話してくれた『与えられない中にも喜びはある』ということが、この子を育てていてよく分かるんです。 会長さんも子供が四人おられて、そのお子さんの成長を感じることは、間違いなく嬉しいことですよね。でも私は、それより100倍は嬉しいです! 首が据わって、お座りして、ハイハイして、つかまり立ち、よちよち歩き…。親として、その成長する姿を見るのは本当に嬉しいことだと思います。でも、うちの子供は首が据わったのが生後半年を過ぎてからでした。 ある日、夜中に目が覚めると、この子が寝返りを打とうとしていました。私は主人を起こして、必死に寝返りしようとしているこの子を朝まで...
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    1分未満
  • 父の教え
    2025/03/14
    父の教え 千葉県在住  中臺 眞治 思い出すだけで罪悪感や後悔の念に駆られる出来事が、誰にでも一つや二つ、あるものではないでしょうか。そして、たいていの人の場合、そうした記憶に蓋をし、なかったことにしながら日常を生きているのだと思います。 私の場合、そうした記憶が数えきれないほどあります。恥をさらすようですが、今日はその一つをこの場で打ち明けながらこれからの生き方を考えてみたいと思います。 今から21年前、大学を卒業後、東京にある日本橋大教会で勤務をしていた時の話です。当時、私が与えられた役割はホームレス状態の方の自立支援を行うことでした。大教会から3階建ての建物を貸して頂き、そこで一緒に暮らしながら自立に向けて様々な手助けを行うというものです。 また、夕づとめ後には天理教の教えを取り次ぐ時間を設けて色々と話をしていたのですが、そこで繰り返していたのは「徳を積むことが大切ですよ」という話でした。 「徳がないから行き詰まるんですよ。だから徳を積みましょう」と、あたかも自分は徳のある側で、相手は徳のない側であるかのような考えで話をしていたのです。あまりにも高慢な考えに、いま思い出すとゾッとしますが、当時の私は、自分の生活が大教会青年という立場に守られているものに過ぎないということに気が付いていなかったのです。決して徳があるから不自由なく過ごしているというわけではありませんでした。 そのことに気が付いたのは教会長に就任してからでした。前回の放送でもお話ししたのですが、孤独や貧困の中で心の中が不足ばかりになって行き詰まり、「あー、自分も徳のない人間の一人なんだ」と、そこで初めて自覚ができました。 そもそも徳とは何でしょうか。皆さんの周りにも、「この人は徳のある人だなー」と感じる方が何人もおられると思います。その方々を思い浮かべてみると、立場や財産があるから徳のある人だなと感じるわけではないし、それらがなくても徳のある人だなと感じることはあると思います。幸せに生きていくために、身体に必要なのが栄養であり、心に必要なのが徳ではないかと思います。 私の場合、父を見ていると、徳のある人だなと感じます。身内のことで恐縮ですが、私にとっては大きく影響を受けた存在でもあるので、ここでは父のエピソードを交えながら、「徳を積むってこういうことじゃないかな」、そして、「徳を積むとこうなっていくんじゃないかな」ということを語ってみたいと思います。 今から30数年前の話になりますが、私の実家である報徳分教会に一人のホームレスの方が訪ねてきました。50代の男性で「おにぎりを一つ分けて下さい」とのことでした。父はすぐに用意をして手渡しました。 するとその男性はとても喜んでくれたので、父は嬉しくなって「教会に住んでくれたら三食出しますよ」と提案しました。以来、その男性は74歳で亡くなるまで教会で一緒に暮らしていました。 このことがきっかけとなり、教会には人生に行き詰った方が次々と身を寄せるようになり、いつの間にかその人数はのべ700人近くになっていました。 そのような中で父がよく話していたのは、「どうしたら人が喜ぶか。どうしたら人がたすかるか。それだけ考えていたら幸せになりますよ」という言葉でした。 このようなエピソードを聞くと、優しい穏やかな父なのだと思われるかも知れませんが、元々はとても短気な性格で、若い頃は瞬間湯沸かし器のような怒り方をする人でした。それが段々と穏やかになり、60歳を過ぎた頃からはいつ会っても上機嫌な人に変わっていったのでした。そうした父の変化を見ていると、色んな人と関わることが自分自身の成長につながるのだなと感じます。 どうしたら徳が積めるのか。天理教の原典「おさしづ」では、 「不自由の処たんのうするはたんのう。徳を積むという。受け取るという」(M28・3・6) と教えられています。 不自由には、お金や物の不自由もあれば、人間関係の不自由や健康面での不自由など、様々な苦労があると思います。父の場合、困難を抱えた方々を大勢引き受...
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    1分未満

天理教の時間「家族円満」に寄せられたリスナーの声

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