『天理教の時間「家族円満」』のカバーアート

天理教の時間「家族円満」

天理教の時間「家族円満」

著者: TENRIKYO
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このコンテンツについて

心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。 スピリチュアリティ
エピソード
  • たすけてもらう力
    2025/11/28
    たすけてもらう力 埼玉県在住  関根 健一 ある日の朝、テレビの情報番組で「受援力」というテーマを特集していました。 援助を受ける力と書いて「受援力」。地震大国と言われる日本ですが、その名の通り阪神・淡路大震災以降、全国各地で数年おきに大規模災害が起こっていて、そのたびに支援の仕組みが見直されてきました。受援力とは、そんな背景の中で注目され始めたキーワードだそうです。 災害対策の取り組みの中で「自助、共助、公助」という考え方があります。東日本大震災のように広範囲で大規模な災害が発生した時、いくら準備をしていたとしても、行政の支援である「公助」はすぐには機能しないことが多いのです。 ですから、まずは自分の力で自分の身の安全を確保するための「自助」。次に、行政の支援が届くまで身近な人とたすけ合う「共助」という考え方を元に、万が一の時に備えておくことが一般的になってきました。 そうした流れの中で、共助、公助を行う際には、誰にどんな支援が必要なのかを把握することが必要になりますが、実際は自分の困った状況を伝えられない人がたくさんいるという現状に直面するそうです。 「たすけてください」「こんなことで困っています」。言葉にすると簡単に言えそうですが、命からがらたすかった後の極限状態では、混乱しているのは当然です。しかも周囲にもたくさん困っている人がいる中で、「私より困っている人がいるのに、この程度のことでたすけてとは言えない」と思ってしまうのも無理はありません。 さらにその番組では、「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されることも要因の一つではないか?」と投げかけられ、生活保護を受けられるのに受けない人がいることなども、同じような問題ではないかと触れられていました。 テレビを観ながら、娘が通う特別支援学校のPTA会長をしていた頃に依頼され、「障害のある子供たちの『たすけてもらう力』を育む」というテーマで、教育委員会の機関誌に寄稿したことを思い出しました。 その内容は、「一般の小学校で、教育方針に『生きる力を育む』と掲げているのをよく目にします。でも、特別支援学校に通う児童・生徒の中には、食事や排泄など、生きるための必要最低限の行為にも人の手を借りなければならない子供が多いのです。彼ら彼女らが『生きる』には、『たすけてもらう』ことが欠かせないのです。だから、生きる力を育むことは、「たすけてもらう力を育む」こととも言えるのです」 大体こんな感じの内容でした。また、この時に「日本人は幼い頃から『人に迷惑をかけないで生きていきなさい』と教育されること」の弊害について言及したことも覚えています。 発達障害のある人は、あいまいな言葉のニュアンスを読み取ることが苦手です。「何か困ったことがあったら遠慮なく言ってくださいね」と声をかけたとしても、「その〝何か〟が何を指すのか分からない」となってしまうことがあります。 「お腹が空いてますか?」「夜眠れますか?」など、具体的に聞いてくれればイメージ出来るのですが、支援者や相談者が必ずしもそうした配慮をしてくれるとは限りませんし、すべての行為を例に挙げて聞いていくわけにもいきません。 災害時に限らず、障害のある人たちは日常からそうしたコミュニケーションによる弊害を抱えているのです。裏を返せば、障害のある人たちにも理解しやすいように、たすけてもらう力を引き出す問いかけが出来るなら、災害に直面した時にもスムーズなコミュニケーションが期待出来るのだと思います。 その番組を観た日の夕方、夕づとめで「おふでさき」を拝読し終えると、ふと、   にち/\にをやのしやんとゆうものわ  たすけるもよふばかりをもてる (十四 35) というおうたが浮かびました。テレビで「たすける」「たすけられる」という言葉を耳にしていたせいかもしれません。 私たち天理教の「ようぼく」は、「つとめ」と「さづけ」の実践を通して、親神様のご守護、教祖のお働きを頂くことが使命です。この行いを私たちは...
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  • たすかるとは? リキゾウさんとの日々
    2025/11/21
    たすかるとは? リキゾウさんとの日々 千葉県在住  中臺 眞治 今から5年前、長年一緒に暮らしたリキゾウさんが78歳で出直しました。リキゾウさんは「信仰によってたすかっていく」とはどういうことかを私に考えさせ、教えてくれた方でした。今日はその日々について振り返ってみたいと思います。 昭和18年、戦争中にリキゾウさんは生まれました。中学を卒業後は印刷会社を転々としながら働いていましたが、50歳の頃、借金が重なり、消費者金融の取り立てが厳しくなって恐怖を感じるようになり、その状況から逃れるためにホームレスになりました。 10年ほどホームレス生活をしていたそうですが、当時、報徳分教会長を務めていた父に声をかけられ教会で暮らすようになりました。6年ほど働きながら報徳分教会で過ごし、その間に4度、おぢばで三か月間教えを学ぶ修養科へ行きました。何度も修養科へ行ったおかげか、出直して5年経った今でも色んな方から「リキゾウさん元気にしてる?」と声をかけられます。 私とリキゾウさんの最初の出会いは20年ほど前で、父からの電話がきっかけでした。「住み込みさんがお酒を飲み過ぎて警察署に保護されているみたいだから、迎えに行ってきてくれないか」とのことで、早速、車で署に向かいました。 到着後、警察の方々にお詫びをしながらリキゾウさんを車に乗せて帰ったのですが、車内でおしっこをしてしまいました。私は「あちゃー」と思い、帰宅後、洗車をしながら「次、迎えに行く時は絶対ビニールシートを座席に敷いておこう」と、固く決意したのを覚えています。 リキゾウさんはお酒が大好きな方で、何か気に入らないことがあると近くの公園に行き、そこで出会った仲間と酒盛りをしては数日帰って来なくなり、警察に保護されることも度々でした。しかし義理堅いところがあり、どこか憎めない昭和の男性でした。 元々は身体の丈夫な方でしたが、長年の不摂生がたたったのか、身体のあちこちが不自由になり、64歳の時、父と相談の上、ゆっくり過ごせる場所の方が良いだろうということで、千葉県にある私共の教会でお預かりすることになりました。 一緒に暮らし始めてからのリキゾウさんは、なぜかいつも怒っていました。他の住み込みさんに当たったり、物に当たったり。 扉の開け閉めもあまりに強く行うために、ドアが二か所壊れてしまったこともありました。私はその怒りの意味が分からず、リキゾウさんの言動を改めさせようと毎日何度も注意をしたのですが、状況が変わることはありませんでした。当時の私は、どうしたら相手を変えられるかということばかり考えていました。 そんなリキゾウさんも、月に一度だけ上機嫌になる時がありました。それは、元々暮らしていた報徳分教会の月次祭に行った時でした。到着して少しすると、リキゾウさんはフラッといなくなります。近くの公園にいる飲み仲間に会いに行くのです。そして何杯かごちそうになり、私たちが帰る時間になると戻ってきて、一緒に車で帰るというのがいつものパターンでした。 帰りの車中はずっと上機嫌で色んな話を聞かせてくれていたので、私は心の中で「いつもこのぐらい機嫌良くしてくれたらいいのにな」と思っていました。 リキゾウさんはお酒を飲めば上機嫌になるというわけではなく、教会で飲んでも不機嫌な状態は変わりません。今思えば、公園の飲み仲間とのつながりが、リキゾウさんにとって大切な意味を持っていたのだと思います。 余生をゆっくり過ごすために当教会に引っ越したわけですが、同時にそれはリキゾウさんにとっての大切なつながりを奪ってしまうことでもあったのだと、当時気がついてあげられなかったことを申し訳なく感じています。 リキゾウさんは他の住み込みさんとは一切会話をしない人でしたが、私と二人きりの時は色々と話をしてくれる人でした。その中で度々口にしていたのが、「自分は生きている価値のない人間なんだ」という苦しい言葉でした。その都度、私は神様の親心について話をしたのですが、「神様なんていないよ」と返してくるリキゾウさんに届く...
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  • 心の姿勢を正そう
    2025/11/14
    心の姿勢を正そう 東京都在住  松村 登美和 先日ネットで、お盆の帰省ラッシュの折、新幹線で起きた出来事の記事を見ました。それは、投稿主の女性が自分の購入した指定席へ行くと、40代ぐらいの男性が座っていた、という内容でした。 女性は自分の切符を確認し、間違いがないことを確かめてから、男性に「席をお間違いではないですか」と尋ねました。すると男性は「いや、間違っていない。ここで合っている」と言って動こうとしない。男性の身なりがしっかりしていて、自信たっぷりだったことから、自分が間違っているのだろうかと、女性は何度も自分の切符を見直したそうです。 すると近くの乗客が声をかけてきて、女性の切符を一緒に確認してくれました。そして「この席で合っていますね」と言って、座っている男性に「一度切符を確認してください」とお願いをしてくれたとのことです。男性は渋々、切符と座席ナンバーを見比べて確認をしたのですが、やはり「間違っていない。この席で合っている」と答えました。 その乗客が「よろしかったら切符を見せて下さい」と男性に丁寧に声をかけたのですが、男性は「この席で合っている」と言って取り合ってくれません。男性が悠然としている様子を見て、女性は「もしかしたらダブルブッキングなのかな」とも考えたそうです。 ちょうどそこに車掌さんが通りかかりました。事情を話して、車掌さんが男性の切符を確認すると、果たして男性のチケットは隣の車両の同じ番号の席だったのです。男性は恥ずかしそうにそそくさと席を移動した、という話題でした。 記事を読んだ限り、男性は分かっていてわざと席を譲らなかったのではなく、自分は間違っていないと、最後まで思い込んでいたのだろうと思います。この手の座席トラブルはよくある話なのでしょうが、同時に他人事ではないな、と感じました。 自分は正しい、自分は間違っていない、自分はちゃんとやっている。家庭生活でも、仕事中でも、私もそう思っている場面があります。正確に言えば「思い込んでいる場面」です。 しかし、そうした思い込みは、家族間の擦れ合いや、仕事仲間との軋轢を起こす原因になります。それは自分にとっても周りの人にとっても、あまり良いことではありません。 人間は神様ではありませんから、当然、間違っていることも往々にしてあるはずです。 人間同士が互いに気持ちよく生きていくためには、「自分の考えは間違っているのかもしれない」「相手が言っていることの方が正しいのかもしれない」と考えることが必要なのではないでしょうか。では、そうした考え方を身につけるには、どうすれば良いのでしょう。 以前私は、背中に痛みが出て整骨院に通っていました。その折、先生は私を診察台に横たわらせて、「身体を真っ直ぐにしてみてください」と言いました。私が身体を真っ直ぐにすると、「そうですか、それが松村さんの真っ直ぐなんですね。じゃあ、これはどんな感じですか?」と、腰と足首を移動させられました。私は足が左側に捻じれて、何か気持ち悪い感じがしたのですが、先生は「これで身体は真っ直ぐなんですよ」と教えてくれました。 そして、「今度は立ってください。真っ直ぐ立って。いいですか? では鏡を持ってきますね」と言って、真っ直ぐ立った私の前に姿見を持ってきました。鏡を見ると、直立しているつもりの私の身体は、ちょっと左に傾いていました。 先生は「ね、身体が歪んでいるんですよ。自分では真っ直ぐなつもりでも、長年の癖でこうなるんです。普段から気を付けて、鏡やガラスを見て、姿勢を真っ直ぐするようにしてください」とアドバイスを頂きました。 天理教の教祖、中山みき様「おやさま」は、「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや」とお諭し下さいました。 人は、身体だけでなく、心も長い年月の間に癖がついてしまいます。身体は、例えばいつも同じ向きで足を組んでいると、その癖がついてしまう。心も、いつも同じ使い方をしていると、気づかないうちにその心の使い方が標準になって、...
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