• まことの人
    2025/07/04
    まことの人                      助産師  目黒 和加子 数年前、ラジオ天理教の時間に『テールランプを追いかけて』というタイトルで原稿を書きました。リスナーの皆さん、覚えておられるでしょうか。 その内容は私が4歳の時、父が事業に失敗し多額の借金を残して蒸発。その辛い経験を子供の視点で書いたものです。放送後、「そのあと、お母さんはどうされたのですか。お元気でしょうか」と母を心配してくださる声を沢山いただきました。今回は、母のその後の生きざまを書いてみます。 失踪してから7年後、私が小学5年生の時に父の居場所がわかりました。家庭裁判所の調停で離婚が成立し、私と弟が二十歳(はたち)になるまで毎月養育費を送る約束でした。 しかし、送られてきたのは半年ぐらいでしょうか。しかも中身は五百円札が一枚とか、百円札が三枚とか、小さな子供にあげるおこづかいのような金額でした。現金書留の封筒を手に、悲しい顔でため息をつく母。そのうち途切れ途切れとなり、やがて届かなくなりました。 この頃から、母の中で何かが吹っ切れたのでしょうか。進んで人様のお世話をするようになり、子供の目から見ても変わっていくのがわかりました。 母は隣町の総合病院に看護師として勤めていたのですが、事情のある若い看護師さんや看護学生さんを抱えるようにお世話を始めたのです。 数年間、一緒に住んだ看護師さんも二人います。二人ともうちからお嫁に行き、うちで里帰り分娩しました。職場では救急外来と手術室の主任を兼任し、周囲から頼られる存在になっていったのです。 母が48歳の時、同じ病院で勤務するK先生が病院を開業することになり、総師長として来てもらいたいと引き抜きの声がかかります。悩んだ末に看護部門のトップである総師長として新たなキャリアをスタートさせました。 母がまず取り組んだのは、子供を持つ看護師や看護助手が働きやすい環境づくりです。病院内に24時間託児所や病児保育室を設置。その結果、離職するスタッフが減り、子育てと仕事が両立できる職場として地域に知られるようになりました。 また、その当時まだ珍しかった訪問看護ステーションを立ち上げ、自ら所長を兼務。地域医療の担い手として看護師を育てました。 そして、持ち前の粘り強さで周囲のスタッフを巻き込み、厚生労働省の定める看護基準の最高ランク「特A」の取得に多大な貢献をしたのです。当時、民間の中小病院では「特A」の取得が難しかった時代、周囲の同業者を驚かせました。 母は74歳で退職するまで25年間、総師長を務めました。長きにわたり続けてこられたのは、ゼロから立ち上げた管理職としての功績よりも、母の人柄によるものだと私は思います。 情に厚く、困っている人をほっておけない母。俗に言うガラの悪い地域にある病院なので、ヤクザの奥さんや刑務所から出てきた人など、びっくりする背景を抱えたスタッフもいたようです。嘘をつかれ、裏切られることもしばしば。それでも人を信じ、温かい情を貫いた母らしいエピソードを一つ紹介します。 木枯らし舞う二月の真冬日。看護助手の求人に応募してきた橋本美加(はしもと・みか)と名乗る35歳の女性を面接しました。5歳の男の子を育てるシングルマザーで、埼玉から大阪に引っ越してきたばかりだと言います。身なりからは生活に困っている様子が漂い、深い事情がありそうです。 面接が終わると「子供を家に置いておけなくて、病院の玄関先で待たせています」と言うのです。その子は自動扉の向こうで寒さに震えながら待っていました。お母さんを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきて、ピッタリくっついています。その姿に胸打たれ、一抹の不安を感じつつパートで雇うことにしました。 母は生活用品を揃えてあげたり、患者さんから頂いたお菓子を取り置きして持って帰らせたり、何かと心にかけていました。 それから一か月後のある朝、「橋本さんが出勤してきません」と病棟主任が報告に来たのです。橋本さんの携帯電話に掛けようとした時、総師長室の電話が鳴りました。橋本...
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  • 世界一れつ皆きょうだい
    2025/06/27
    世界一れつ皆きょうだい                  フランス在住  長谷川 善久 一般的に西洋人は個人主義だと語られることがありますが、そんなイメージとは違う統計数値を見つけました。それはボランティア活動をしている人の割合です。 年に一回以上参加した人の数ですが、日本人は五人に一人にも満たない割合で、20代、30代に限って言えば約15%、フランスは約30%なので、二倍もの差が生まれているのです。世界で評されてきた日本人の美徳の一つ、相互扶助の精神はもはや昔のものとなっているのかも知れません。 フランスにあるヨーロッパ出張所では、毎年5月に「チャリティーバザー」を開催しています。開催時間は午後の4時間のみと短いのですが、700名以上が出張所を訪れ、無料で提供された物品や軽食販売、指圧や散髪などによる収益金は、全額慈善団体へ寄付をすることになっています。 30年ほど前の開始当初は信者のみで運営していましたが、最近では未信者さん方の「ボランティア」が増えており、全体の3,4割を占めるようになってきました。未信者さんのスタッフの多くは、天理教が運営する文化交流団体「天理日仏文化協会」の会員さんです。 信者、未信者を問わずスタッフの国籍も職業も年齢も多種多様です。日本人、フランス人はもちろんのこと、アフリカ人や南米人などもいます。また医師や弁護士、芸人、学生がいるかと思えば、年齢も上は80代から下は10歳ぐらいと、祖父母と孫のような三世代にわたる年齢層の方々がいます。 開催当日、来場者一人ひとりに次のおふでさきの一首を記したビラを配っています。   このよふを初た神の事ならば  せかい一れつみなわがこなり (四62) 肌の色や言葉の違い、宗教の違いも問わず、老いも若きも共に一手一つになり、困っている人のために我を忘れて尽くす姿が出張所で実現出来ていることに、教祖も喜んで下さっているに違いないと確信しています。 チャリティーバザーと言えど、出張所としては、物を売り、寄付金を集めることで満足するべきではありません。ただ単純に安価な商品販売をすることで、結果的に来場者の物欲を増長するような場にはしないことを申し合わせています。 ある時のバザーでは、いかにも手癖の悪そうな若者が人目を避けるように入場してきました。数分もすると彼が入った売り場の未信者スタッフから私に連絡があり、「所長、万引きしそうな若者が来たので見張りに来てください」と言われました。当然、直ぐに駆け付けましたが、私が彼を見張った理由は、万引きを防ぐためではなく、彼の心の中で物欲が強くなるのを防ぐこと、「よく」の心を起こさせないように祈ることでした。 このチャリティーバザーの真の目的は、あくまでもボランティアや来場者を含めた関係者全ての人が、親神様のお膝元で、他者の救けにつながる行いをし、それによる他者とのつながりを通して、現代のストレスにまみれた心の皺を伸ばしてもらう場にすることだと思っています。 そのためにも、私たちが醸し出す雰囲気で、「世界一れつ皆きょうだいの精神」を感じてもらうことを目指すのが、必要不可欠な心構えだと、信者スタッフにはいつも伝えています。 なればこそ、来場者が何も購入しなくても、人とのつながりが楽しめるようなアイディアも取り入れています。天理日仏文化協会で公演をして下さった方々によるコンサートや演劇、パントマイムなどがそれで、私たちの真の目的を果たすための大きな役割を担ってくれています。 これら無料の文化プログラムがあるお蔭で、より多くの人が出張所の芝生の上で家族揃ってピクニックをするようになったのです。人種、宗教が違えど、偶然隣り合った人と一緒に美しい音楽に聞き惚れ、面白い演劇を見ながら笑い合うきっかけを、これら文化プログラムはもたらしてくれるのです。 そして、私たちがおぢばで迎えられた時に感じるような、スタッフの笑顔とゆったりとした優しい雰囲気の中で、心と心のつながりが生まれやすい環境を提供してくれています。 ある時、レジで黒人の女性が...
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  • タイでのあざやかなご守護
    2025/06/20
    タイでのあざやかなご守護 タイ在住  野口 信也 タイ国の首都バンコクの正式名称は、「天使の都」という意味の「クルンテープ」から始まる、タイ語で約100文字を超える、世界で最も長い首都名で、ギネスブックにも記録されています。 また、タイは仏教の国としてよく知られていますが、この首都名はただの都市の呼称ではなく、日々タイの仏教徒が敬う神々の名前や、教えに基づく平穏社会への理想などが反映されており、タイの仏教信仰や文化を象徴するものでもあります。 さて、そうした仏教の国タイではありますが、基本的には宗教はすべて良いものである、という思いを持つ方が多く、天理教の信仰をされているタイ人の方々も、天理教は排他的ではなく、他の宗教にも寛容で、仏教の教えに似ているといって信仰される方も多いのです。中には天理教のお話を聞いて、「これは本物の教えだ」と感じて、熱心に信仰する方もおられます。 今日ご紹介するチューンさんは、宗教には全く興味を示さなかった友人の夫が、天理教と出合い、いそいそと天理教の集まりに参加する姿を見て、この宗教は何か違う、と興味を持ったそうです。 そんなある日、チューンさんは体調を崩し、友人に誘われるまま、少し興味を持ち始めていた天理教のタイ出張所へ行きました。そして、夕づとめに参拝し、おさづけを取り次いでもらったところ、とても元気になり、驚くとともに大変喜んでおられました。その後、夕づとめや月次祭に顔を出すようになり、積極的におてふりや鳴物を学び始めました。 このチューンさんは小さな料理屋を営んでおられましたが、生活の苦しい方には大盛で安く料理を提供し、一方で人を押しのけてくるような図々しい人には、「あんたに食べさすご飯はもうないよ!」と断ることもあるといった、やさしくて強い肝っ玉母さんという感じの方です。 ある日、お店に全くお客さんが来なかったので、教祖に「お客さんが来てくれますように」とお願いをしました。するとたちまちお店がいっぱいになりました。また、やはりお客さんが全然来ない別の日、遠慮がちに教祖にお願いしました。すると、また急に来客でいっぱいになり、嬉しさのあまり天理教を紹介してくれた友人にこのことを話しました。 すると冗談交じりに、「自分のことばかりお願いして、教祖の手を煩わせてはいけないよ」と言われたとのこと。 そして三回目、ここ何日かお客さんが来ていませんでした。そこで、今日お客さんが来たら、今後は毎月26日は店を閉めて、出張所の遥拝式に参拝する。そう心に決めて教祖にお願いをしました。果たして、食材がなくなるほどお客さんが来たということです。 そんなある日、大変働き者の、チューンさんの84歳になる母親が、ドラム缶を持ち上げようとして、腰の激痛とともに倒れて病院へ。医師から、「腰椎の四カ所で圧迫骨折を起こしていますが、高齢のため手術もできません」と入院を断られ、自宅で寝たきりになったと連絡がありました。家庭の事情で母親と少し距離を取っていたチューンさんですが、やはり親子です。なんとかたすけてもらいたいと、すぐに連絡をくれました。 私はすぐに自宅へ駆けつけ、精一杯おさづけを取り次ぎました。高齢な上にこれほどの症状なので、どうなるかと不安な思いでいっぱいでしたが、チューンさんはこの時も自身の経験から「三日で治るから」と、信じ切った様子でお母さんに言って聞かせていました。チューンさんの兄弟たちも、大好きな母親のために車で私を送り迎えして応援してくれました。 私はお母さんの症状を考えて、何かチューンさんに神様との約束をしてもらいたいと思い、迷いながらも「チューンさん、今日から一週間は毎日参拝を…」と言いかけました。するとチューンさんは、「はい、今日から一カ月間、毎日出張所へ参拝に行きます」と、自分から進んで決心してくれました。 おさづけを取り次ぎ始めて三日目、腰の痛みは相変わらずで、座ることもできず、身動きができないためか便が全く出ておらず、その症状のお願いも加わりました。四日目、「便は出...
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  • 「ありがたい」と思う
    2025/06/13
    「ありがたい」と思う 大阪府在住  山本 達則 どのご家庭でも、毎日の生活の中で一日として「同じ日」というのは無いと思います。「今朝は夫がご機嫌斜め」「奥さんは体調が優れない」「子供はご機嫌で学校へ」こんな日があると思えば、次の日は「夫は仕事がうまくいって上機嫌」「でも、子供が朝から熱っぽい」「奥さんは子供の世話で朝からばたばた」など、よくあることと言えば、よくある家庭での日常だと思います。 しかし、「よくあること」で片付けられないような一大事が起きたり、「何でこんなことになってしまったのか」と頭を抱えるような経験をすることもあります。 以前、私の息子が大学生になってバイクの免許を取りました。息子は早速、先輩から中古のバイクを譲ってもらうことになり、それを先輩の自宅まで取りに行くことになりました。 天理教の教会である我が家の妻は、「バイクを取りに行くなら、神様にお礼とお願いをしてから行きなさいよ」と声をかけました。息子はちょっと邪魔くさそうに、「帰ってからするわ」と答えましたが、妻は負けじと「先にしなさい」と。息子は渋々でしたが、神殿に上がり、神様にお礼とお願いをしてから、意気揚々と出かけて行きました。 しばらくして、息子から家に電話がかかってきました。「先輩からバイクをもらって、帰る途中でスリップ事故を起こした」と。幸い単独事故で、どなたに迷惑をかけることもなく、バイクが少し壊れたのと、息子が軽い怪我をしたということで、迎えに行くことになりました。バイクは修理が必要で、車屋さんに修理をお願いして、息子を車に乗せて自宅へ戻りました。 息子は帰りの道中で、「最悪や、お願いしていったのに」とやり場のない怒りを妻にぶつけました。その息子の様子を見て、妻は「何言ってるの。神様にお礼とお願いをしていったから、このくらいの事故で済ましてもらったんやで。お願いをしていかなかったら、今頃病院かもしれんよ」と言いました。 私はその二人の会話を聞いて、正に「言い得て妙」だと思いました。物事には色んな捉え方があることを、改めて実感させてもらいました。 確かに息子が言うところの「最悪だ」ということも、うなずけると言えばうなずけます。でも、この時の息子に「嬉しい」という気持ちはありません。 同じ結果であっても、「この程度で済ましてもらえて良かった」と思うことができれば「嬉しい」。物事の捉え方によって、同じ結果でも「良かった」と思うこともできれば、「最悪だ」と思うこともある。物事の見方は決して一方向でないのです。 得てしてお互いは、自分に無いものを持っている人に心を奪われ、自分にとって損な出来事に出合うと心を濁します。当たり前と言えば当たり前かも知れません。 天理教では、人間の身体をはじめ、生活の中の人間関係、更には周りの環境や手にするものすべてが神様からの「かりもの」であり、私たちが自由にできる我がものは「心」だけだと教えられます。その心の持ちようが、自分の人生を良くもすれば、悪くもすると聞かせて頂きます。 自分に無いものを持っている人に出会った時、「うらやましい」「どうして自分にはそれが無いのか」と心を濁す時は、おそらく自分の見えている方向の半分しか見えていないのではないでしょうか。 自分に無いものを持っている人は、確かに目の前にいるのかも知れませんが、実は自分が持っているものを持っていない人も、目を凝らせば世の中には沢山おられるのです。 当たり前だと思いがちな、目が見える、話ができる、耳が聞こえる、歩ける、食べられる…。言い出せばきりがありませんが、その当たり前と思い込んでいることが出来ずに、悩み苦しんでいる方は、世の中に沢山おられます。 方向を変えて、そちらの方を見ることが出来れば、自分が持っていないものを持っている人に出会っても、「ありがたい」という心が湧いてくるのではないでしょうか。 私の息子のように、思い通りにならないことに出合って、不足をするという自由もあります。しかし、自由に使える心の最高の使い方は、...
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  • 不登校から学んだ親心
    2025/06/06
    不登校から学んだ親心 福岡県在住  内山 真太朗 教祖ご在世当時、病気をたすけられた人に対して、教祖は神様へのご恩報じは人をたすける事だと説かれ、「あんたの救かったことを、人さんに真剣に話さして頂くのやで」と仰せられました。 自分がたすけられたと思えるということは、それ以前に自分に大変な苦労や悩みがあったということです。人の苦労や悩んでいる気持ちは、経験していなければなかなか分かるものではありません。 私は小学四年生から中学三年生までの約6年間、全くと言っていいほど学校に行っていませんでした。いわゆる「不登校」です。 なぜ学校に行かなかったか? いまだによく聞かれますが、自分でも理由はよく分かりません。いじめられていた訳でもなく、友達がいなかったり、勉強が嫌いだった訳でもなく、本当にただ行きたくないだけでした。 突然私が学校に行かなくなったので、当然、両親や家族、また周りの人たちには、「なぜ学校に行かないんだ?」「学校の何が嫌いなの?」と問いただされたり、「義務教育なんだから行きなさい!」などと説得されたりしました。 教会長であった父は、毎日のように嫌がる私を力尽くで連れて行こうとしましたが、私は意地でも逃げ回っていました。また、放課後には担任の先生が毎日のように、学校へ来るよう説得しに家を訪れて来ましたが、周りの大人に色々言われると余計に行きたくなくなりました。なるべく人と接するのを避けるようになっていき、昼夜逆転の生活を送っていました。 そうして中学三年生まで不登校が続いたある日、父から「高校はどうするんだ?」という話がありました。私が「将来の事を考えたら、高校には行きたい」と答えると、父からおぢばの学校を勧められ、本当に大きな親心のおかげで天理の高校に入学させて頂きました。 しかし、おぢばでの学校生活は予想以上に厳しいものでした。それまでの自分勝手な生活とは正反対の、規律ある学校と寮の生活に、毎日辞めたいと思い続けた三年間でした。 でも、辞められなかった。高校入学が決まった時、不登校の6年間、私を支えてくれていた沢山の人たちが、まるで我が事のように心底喜んでくれ、大きな期待を寄せてくれた。今ここで辞めてしまっては、その支えて下さっていた大勢の人たちを再び裏切ることになってしまう。そう考えると、毎日どんなに辛くとも、辞めるに辞められませんでした。 そうして高校卒業後、天理大学、天理教校本科へと進み、高校から数えて9年間、おぢばで学ばせて頂き、地元・福岡に帰ってきました。 すると驚いたことに、当時は自分しかいなかった不登校の子供が、周囲にたくさんいることに気づいたのです。当時私が全く通っていなかった中学校から連絡があり、「今、この学校では、君のように不登校に悩む生徒やその保護者がたくさんいる。不登校から、高校、大学へと進学した君の話が是非聞きたい」と依頼され、PTAの場で話をする機会を頂きました。以後、色々な方から不登校や引きこもりの相談を受けるようになりました。 この時初めて、なぜ六年間という長きにわたり、理由もはっきりせずに不登校をしていたのか。「なるほど、そういうことか」と得心できました。 教祖は、いま現在、不登校に悩むたくさんの子供やその親御さん達をたすけるために、また、社会問題として大きく取り上げられる前に、当時、六年間にも及ぶ不登校という経験を私にさせて下さったのではないか。そして今、そのことで悩み苦しむ多くの人たちをたすけなさいという、教祖の親心がそこに込められているのだと確信しました。あの時の不登校という経験が、私の人生にとって、特に人をたすける上での大きな財産になっています。 そんなある日、両親との会話の中で不登校の話になりました。私が「不登校だったことに何の後悔もない。今、本当に幸せだ」と父に話すと、父は、「そうか。でもな、お前がここまで成長させて頂けたことには、確かな裏付けがあるんだ」と言いました。裏付けとは何のことかと思い、話の続きを聞きました。 私が不登校をしていた時...
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  • 真実の種と肥やし
    2025/05/30
    真実の種と肥やし 埼玉県在住 関根 健一 私の父は自営業で土木建築業を営んでいました。二人の姉の下に生まれた私は、いわゆる「末っ子長男」。父にとって待望の男の子だったこともあり、幼い頃から現場に連れて行かれ、作業を手伝う母と一緒にセメントを触りながら、遊び半分で手伝いの真似事をしていました。 現場の職人さんたちからは、「おう、関根さんとこの跡取り息子」とからかわれつつも、可愛がってもらった楽しい思い出があります。 中学生になる頃には身体も大きくなり、まだ一人前とは言えないものの、父からも戦力として期待されるようになりました。自然と「自分もいずれこの仕事を継ぐんだ」という意識が芽生えました。 しかし、それと同時に、幼い頃には気にならなかったことが気にかかるようになりました。現場に着くと、大工さんや水道屋さんなど、その日作業をする職人さんの顔が見えるたびに「おはようございます!」と挨拶をします。礼儀に厳しい父の姿を見て育った私にとって、それは当然のことでした。 しかし、わずかではありますが、こちらが挨拶をしても無反応の職人さんがいました。30年以上前のことですから、当時は昭和初期や大正生まれの職人さんも多く、「職人は黙って仕事で成果を出す」という昔気質の方も少なくなかったのでしょう。 ただ、必ずしも年配の人が挨拶をしないわけではなく、年代の問題というよりも、その人自身の性格や事情があったのかもしれません。とは言え、挨拶を返してもらえないと、やはり寂しさや違和感を覚えたものです。 建築現場では、人の出入りや材料の搬入がかち合わないように、職人同士の調整が欠かせません。現場監督が不在のことも多く、その場にいる職人たちが連携し、作業を進める場面も頻繁にあります。 そんな時、朝に気持ちよく挨拶を交わした人と、挨拶を返さなかった人を比べると、どうしても後者の人には協力的な気持ちが湧きにくいものです。 もちろん、当時の私の未熟さもあったとは思いますが、実際に多くの人が日常的なコミュニケーションによって仕事への影響を受けるものです。裏を返せば、挨拶一つで相手の態度が好意的に変わるということ。今風に言えば、挨拶はコストパフォーマンスの良い行動の代表例でしょう。 一方で、挨拶を無視することは、「あなたにマイナスイメージを持っていますよ」と表明しているのと同じで、実にもったいない行為だと思います。 先日、ある仕事で業者Aさんと、それに関連する工事を行う業者Bさんと顔合わせをしました。Aさんは知人の紹介で、今回初めて仕事を依頼する方でした。打ち合わせの場に現れたAさんは、咥えタバコのまま、ろくに挨拶もせず打ち合わせを始めました。 私は面食らい、注意するタイミングを逃してしまいましたが、なんとか打ち合わせは終わり、翌週から工事が始まりました。 しかし、順調に思えた工事の中で、Aさんの会社の作業ミスが発覚しました。急きょ、関連業者と対応策を検討することになりました。発注元である私は責任を認め、平身低頭お詫びをし、なんとか理解を得ることができました。 その時、関連業者の担当者がポツリと、「Aさん、最初の打ち合わせの時に咥えタバコでしたよね。なんとなく心配してたんですよ…」と漏らしたのです。 この件に関しても私に責任があることなので、謝罪して翌日からAさんの会社に改善を求めて対応しました。仕事の質はもちろん大切ですが、普段のコミュニケーションが相手の印象に影響を与えることを改めて痛感した出来事となり、私も深く反省して教訓としました。 教祖伝逸話篇の中のお話に、「言葉一つが肝心。吐く息引く息一つの加減で内々治まる」という教祖のお言葉があります。(137「言葉一つ」) 人間の息は、口を大きく開いて「ハ~」と吐くと温かく、小さくすぼめて「フ~」と吐くと冷たくなる。同じように、言葉も使い方次第で相手の心を温めることも、冷ますこともできる。そう教えて下さっていると解釈できます。 他にも教祖は、言葉の大切さについて様々な教えを残してくださいました。その...
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  • あっぱれスピーチ
    2025/05/23
    あっぱれスピーチ 岡山県在住  山﨑 石根 我が家の子どもたちが通う中学校では、毎年3学期になると「私の主張発表会」という行事が開催されます。受験生ではない中1と中2の生徒全員が3分ずつスピーチの原稿を作って、クラスで発表し、みんなで評価をし合う行事です。 発表会の日は参観日も兼ねているので、中2の娘が「お母ちゃん、聞きに来てよ」とお願いをしていましたが、当日、妻は教会の御用があったため、参加が叶いませんでした。ですので、私が「ととは行けるで」と伝えるも、「ととは来なくていい」と、悲しい返事です。 そして迎えた当日、私は都合をつけることが出来たので、学校に足を運びました。他のクラスも覗きましたが、どの生徒たちの発表も目を見張るような素晴らしい内容ばかりです。環境問題や人権問題、SDGsなど大人顔負けのテーマが続き、いよいよ娘の番になりました。 教卓の前に立った彼女は、「当たり前と有り難さ」と元気な声でタイトルを述べると、「皆さんは生きる有り難さを感じたことがありますか? また、それはどんな時ですか? 少し考えてみてください」と、雄弁に語り始めました。 私はタイトルを聞き、「おや?」と思いました。そして、話の内容を聞いていくうちに、「やっぱり!」という気持ちになりました。 それは約一年前の教会の行事で、私が参加した子どもたちに話した「神様の話」そのものだったからです。娘の話には「天理教」とか「神様」という単語は出てこないものの、「当たり前ということはこの世の中に一切ない。当たり前の対義語は〝ありがたい〟だから、日々の当たり前に感謝をして、生きる喜びを感じることが大切だ」というような、私たちが信仰生活で大切にしている内容だったのです。 親のひいき目を抜きにしても、娘の発表は実に圧巻のパフォーマンスであり、日頃から講話を務める教会長の私に勝るとも劣らない、少しも引けをとらない堂々としたスピーチでした。 帰宅後、妻に発表会での様子を伝えた私は、娘に「ととの真似やったなぁ」と少し意地悪を言いました。すると彼女は、「ととの真似じゃないし! 私のオリジナルやし!」と怒ります。 すかさず妻が援護射撃をしてきました。 「いや、考えてみてよ。あなたの原稿を見て、今回のスピーチを考えたわけでもないし、一年も前に聞いた話をこうやって自分の言葉で再現できる、しかも自分の主張に変えられるって、これって考えてみたら、ものすごく立派なことじゃない?」 妻にそう言われ、私も「そうだよな…」と得心しました。 内容は私の影響を受けていたとしても、彼女自身がそれを胸の内に飲み込んで、「こういうことかな?」と消化し、そして「自分の言葉でみんなに伝えたい」と思って、スピーチで表現してくれたのです。そのことを思うと、私は何だかとても嬉しい気持ちになったのでした。 さて、この行事は、発表後に生徒同士で内容や原稿、パフォーマンスの部分をお互いに評価し合い、先生の評価とあわせてクラスの代表を選びます。さらに、その中から学年代表に選ばれると、市が主催する行事に出場できることになるのです。 残念ながら、娘はクラスの代表には選ばれたものの、学年の代表には選ばれませんでした。しかし、彼女が堂々とみんなの前で、私たちの信仰の基本中の基本である「感謝の気持ちの大切さ」を伝えてくれたことが、私たちにとっては大きな大きな喜びであり、金メダルをあげたくなるような雄姿でした。 「育てるで育つ、育てにゃ育たん。肥えを置けば肥えが効く。古き新しきは言わん。真実あれば一つの理がある」(M21・9・24) という神様のお言葉があります。 私たち夫婦も、子どもを育てる前に、私たち自身が信仰的に育っていくことが大切だと、常々自分たちに言い聞かせているつもりです。素晴らしい神様の御教えや、教祖のぬくもりを何とか子どもたちに伝えたい。そのために私たちがまずこの教えを実践し、その後ろ姿を見て、子どもたちに伝わればと願ってやまない毎日なのです。 その中で、私たち夫婦が唯一「これだけは…」と自信を...
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  • 出直し
    2025/05/16
    出直し 千葉県在住  中臺 眞治 今から21年前、私が大学を卒業して間もない頃の話です。ある日の朝、父から電話があり、「Aさんが今、入院していて、いつ出直してもおかしくない病気なんだけど、今日は用があってどうしても行くことが出来ないから、お前、代わりに行っておさづけを取り次いできてくれないか?」と言われました。 Aさんというのは80代の男性で、若い頃から熱心に信仰を続けてきた方です。 それに対して当時の私は、おさづけの理は拝戴していたものの、ほとんど取り次いだことはありませんでした。また、Aさんとは小さい頃に少し面識があっただけで、お話した記憶もほとんどありませんでした。 そういう自分が、病気でもうすぐ出直すかもしれないという人の所に行っていいのだろうか?と迷いましたが、父から「Aさんは昔から熱心に信仰をされてきた方だから。行けば喜んでくれるから」と言われ、「分かりました」とその御用を受けることにしました。 すぐに電車を乗り継ぎ、Aさんの入院している病院へと向かいましたが、道中は緊張でいっぱいでした。死は人間にとって大きな悩み。Aさんは身体的に苦しい中で、精神的にも死と向き合っておられる。今どんな気持ちなのだろうか? どう声をかけたらいいのか? 頭の中ではそのことばかり考えていましたが、結局、答えの分からないまま病室へと入りました。 早速Aさんと目が合いました。長年お会いしていない方だったので、私が誰か分からないだろうと思い、まずは自己紹介と挨拶をしました。すると 「あー眞治君かい。大きくなったね」と私のことを覚えていて下さり、嬉しい気持ちになりました。 そして「ご飯は食べれてますか?」「眠れてますか?」と何気ない会話を始めたのですが、途中からはAさんの方から色々とお話をして下さいました。 30分ほどのお話の中で特に印象に残っているのは、戦後間もない物のない時代の話でした。 「教会につながる者同士で、みんながあったまれる場所を作ろうという話になったんだ。それぞれが貧しい中ではあったけれども、コートを買ったつもり、御馳走を食べたつもりになって、釘やトタン、垂木などの材料を買って持ち寄って、手作りで教会建物を建てたんだよ」と、若い時代に人のたすかりを願って歩まれた日々の事を懐かしそうに語っておられました。 さらに続けて、「僕はね、死ぬのは全然怖くないんだよ。借りた物を返すだけのことでしょ。これから神様の懐に抱かれると思うと、もう嬉しくて嬉しくて仕方ないんだよ」と、本当に嬉しそうな顔で私に聞かせて下さいました。 天理教の原典『おふでさき』では、   このものを四ねんいせんにむかいとり  神がだきしめこれがしよこや  (三 109) と記され、神様によって迎え取られた魂は、そのあたたかい懐に抱かれるのだと教えて下さっています。 また、天理教では死ぬことを「出直し」と言います。死ぬことがこの世で生きることの終わりを意味するのに対して、出直しは、古くなった着物を新しい着物に着替えるように、お借りした身体を神様にお返しし、また新しい身体をお借りして、再びこの世に出直して帰ってくることを意味しています。 教祖・中山みき様は、末女こかん様の出直しに際して、「可愛相に。早く帰っておいで」と優しくねぎらわれました。先ほどのAさんの言葉は、こうした教えを信じ、人にもそう伝えてきたからこそ自然と湧いてきた思いだったのではないでしょうか。 その後のAさんですが、体調の回復にともない退院され、家族の元へと帰っていかれました。そして何度か入退院を繰り返し、数年後に出直されました。 葬儀の日、私はこの時のAさんの言葉を思い起こしながら、Aさんは悔いのない人生を生きたのだなと感じ、自分もそのような人生を生きられたらなと思いました。 この出来事から21年が経ち、今、私がどう考えているのかと言えば、「悔いもないし、いつ出直すことになってもいい」などという気持ちにはなっていません。まだまだ生かしていただきたいと願っています。 しかし、いつかは出直す。その現実は変...
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