• 「TENRI」文化を世界へ
    2025/11/07
    「TENRI」文化を世界へ                   フランス在住  長谷川 善久 最近、私が住むフランスでも日本の移民政策について良く耳にする機会が増えました。これから日本社会が、話す言葉が必ずしも同じではない人々をどのように受け入れていくのか、興味深く見守っているところです。 私が日本人からよく受ける質問に、「フランス語は難しいですか?」というのがあります。私はいつも決まって一言だけ「難しいです」と答えるのですが、すると大概の人が「そうだろうな」と残念そうな表情をします。 そこで私はひと呼吸おいて、「けど、フランス人とコミュニケーションを取るのは楽なものですよ」と続けます。そして「日本人以外の人でも、嬉しい時には笑い、悲しい時には泣きますから」と、分かり切ったことを、あえて深い真理かのように伝えます。 ある研究によると、他者とのコミュニケーションで伝わることを全部で100%とすると、そのうち口から出る言葉自体が伝達できるのは、約10%だといいます。つまり、言葉の内容以外の表情、身振りや手振り、話し方や口調などが九割を占めるということになります。 実際私自身も、その割合はともかく、言語コミュニケーションの有効性に限りがあるという説には、経験からしても確かに一理あると思っています。 かくも人間関係とは、コミュニケーションに依存する度合いが高いのですが、その関係が良好であれば、人は他者に対する恐怖心が薄くなり、安心感、幸福感が高まります。その上で、海外生活において言語能力以上に大切だと思う点をあえて二つ挙げるなら、それは相手との違いに興味を持つこと。そして先入観を捨ててオープンに相手を理解しようとする姿勢です。 そこに教祖から教えて頂いている「誠真実」の実行があれば、たとえ外国人との間で、少々言葉による障壁や誤解などがあっても、全く恐れるには足りません。 天理教の『信者の栞』には、このようにあります。 「誠真実というは、たゞ、正直にさえして、自分だけ慎んでいれば、それでよい、というわけのものじゃありません。誠の理を、日々に働かしていくという、働きがなくては、真実とは申せません。そこで、たすけ一条とも、聞かせられます。互い立て合い、扶け合いが、第一でございますによって、少しでも、人のよいよう、喜ぶよう、救かるように、心を働かしていかねばなりません」。 積極性をもった対人関係、人と自分を区別しない心。自己の利害や保身を捨て去った行動は、間違いなく言葉のやり取りを超えた万国共通の心のつながりをもたらしてくれます。  フランス・パリの中心地に、天理教本部によって設立された「天理日仏文化協会」があります。現地では利用者から「TENRI」と呼ばれ、親しまれている文化センターです。  現在は、活動の中心である日本語教育以外にも、日本の伝統文化や美術、音楽などの紹介もしており、年間の会員数は1000名を超え、民間の日本文化関連団体としては、フランスで最も知られている団体です。  この「TENRI」センターの運営は、現地の布教所長3名が中心となっており、20名を超える未信者の職員を抱えています。それに加えて現場実務の上で重要な役割を担う存在として、天理教本部の青年会、婦人会が実施する「海外日本語教師派遣プログラム」で、日本語教師として二年間派遣されてくる若者たちがいます。 授業は全て日本語で行われるものの、フランス語が決して上手ではない派遣生らは、授業外での学生との意志の疎通に苦心しているのが現状です。それでも不思議なことに、出張所で信仰生活をしながら文化協会で教師として勤める彼らのクラスでの評判は、いつの時代の派遣生もトップクラスなのです。 フランス語が上手く話せないことへの不安に対して、私がいつも彼らに話すことがあります。 「君たちはフランス語が上手く話せるわけではない。上手い人をうらやましいと思うかも知れない。しかし、言葉がよく出来ることが悪く作用することだってある。それは、言語能力が高ければ高いほど、自分の本心を隠して、相手...
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  • 親孝行ってありがたい
    2025/10/31
    親孝行ってありがたい 福岡県在住  内山 真太朗 以前、知人の紹介で、茨城県に住む中学3年生の女の子に出会いました。彼女は小さい頃から地元のマーチングバンドでドラムをやっていたそうなのですが、全国大会で見た天理教校学園マーチングバンドの演奏に感動し、私もこの高校に入りたいと、つてを頼って巡り巡って、マーチングバンドOBの私に連絡をしてきてくれたのです。 しかし、天理教校学園の入学条件には、「親がようぼくである」という決まりがあります。そこでご両親に、「別席」や「ようぼく」という立場について説明し、「娘さんの高校進学までの一年間、定期的におぢばに帰り、別席を運んで神様のお話を聞いて頂くことになりますが、それでもよろしいですか?」と言うと、「私たちにとってたった一人の娘が、ここまで天理の高校に行きたいと言っていますので、何でもさせてもらいます」とのお返事を頂きました。 その年の5月、親子3人で初めておぢばを訪れて頂きました。私は当時、天理教校の本科実践課程で学んでおり、おぢばで3人をお迎えし、ご案内させて頂きました。天理駅から神殿までゴミ一つ落ちていない街並み、見たことのないおやさとやかたの風景、大きな神殿。靴を脱いで参拝をして戻ってくると、靴がキレイになっている。何から何まで本当に感動された様子で、ご両親には別席も二席運んで頂きました。 次のおぢばがえりに向け、ダメ元で娘さんをこどもおぢばがえりと少年ひのきしん隊に誘ってみました。当時、私の地元である福岡教区が、教校学園のマーチングバンドが出演する行事を担当していましたので、「メンバーの近くでひのきしんが出来るよ」と誘うと、「行きます!」と二つ返事で参加してくれることになりました。 本当に楽しく、感動した様子で、最終日には泣きながら「帰りたくない」と言い、後ろ髪を引かれる思いで、別席を運んだご両親と茨城へ帰っていきました。 天理教の教えを理解して頂き、おぢばの素晴らしさを充分体感してもらうことも出来た。これでご両親にも順調に別席を運んで頂けるだろう、いよいよ来春には天理教校学園に入学してもらえると喜んでおりました。 9月、次の別席の日を決めようと思い、連絡しました。するとお母さんが、「もう天理に行くのをやめようと思います」と言うのです。 え?あれだけ感動してたのに、どうして?と思い話を聞きますと、自分たちは天理教の教えやおぢばの素晴らしさを身に染みて感じているけれど、周りの友人や親族が激しく反対するのだと言います。 「よく分からない宗教に入って。それは最初はいい所ばっかり見せるよ。でも実際入ったら何をされるか分からないよ」とネガティブなことをさんざん言われて、心が折れたというわけです。 私は、ここで諦めてなるものかと、何とか思い直してもらえるよう、言葉を尽くして説明し、説得しましたが、ご両親の思いは変わらず、別席も運んで頂くことが出来ず、娘さんの天理教校学園の受験は難しくなってきました。 私は途方に暮れ、どうしたらいいか分からず、その足で本部の神殿に参拝に行きました。すると、知り合いのある教会長さんから、「どうしたん、元気ないやん」と声を掛けられ、これまでの事の次第を全部お話しました。 「もう自分はどうしたらいいか分かりません」。すると先生は、「あー、それはなあ」と次のように諭してくれました。 「その親子は、君が誘っておぢばに帰り、別席を運んだ。神様の目から見たら、その親子は道の子になった。そんな君が導いた道の子が、神様の思いに添わなくなってきた。君自身が、神様に喜ばれるような通り方を日々しているか。親の思いに添って通れているか。よく考えてみなさい。自分自身の神様や親に対する接し方やつとめ方が、巡り巡って全部相手に映ってくるんだ」 正直、グサッと胸に突き刺さりました。当時私は、父親との関係があまり良くなく、おぢばに置いて頂きながらも、神様の思いとはかけ離れた心で生活していました。 よし、こうなったら、この子のために私情を捨て、親孝行の道を、...
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  • おじいちゃんの種
    2025/10/24
    おじいちゃんの種 兵庫県在住  旭 和世 親は子供に、「幸せになって欲しい」と願いながら子育てをすると思います。私も子供たちに、イキイキとした楽しい人生を送って欲しいと思って子育てをしてきたつもりですが、これまでの経験で痛感したことは、親の出来る子育ては一部に過ぎないということです。 子供たちは、親だけではなく色んな立場の人に、温かい言葉や情をかけてもらい、交流を通じて成長していきます。そしてさらに、神様の教えにふれる事や、親々が残してくれたお徳によって育てて頂き、人生がイキイキとしてくるのだと実感しています。 そのように感じる中の一つが、鼓笛隊の活動です。我が家の子供たちは小さい頃から、隣の支部の鼓笛隊に所属しています。 ある日曜日のこと、当時小学校低学年だった長男が私に、「なんで鼓笛隊の練習行くの?」と聞きます。きっとせっかくのお休みなので、家でゆっくり過ごしたかったのでしょう。 私は長男に、「鼓笛隊で演奏できるようになったら、夏のこどもおぢばがえりの時、おぢばの神殿の前で演奏をお供えできるんよ。これはママにはできないけれど、あなた達ができる神様の御用で、神様がとっても喜ばれるひのきしんになるんよ」と伝えました。その時、私の言葉を理解してくれたかどうかは分かりませんが、長男はその後もずっと鼓笛活動に参加してくれました。 私は幼い頃、上級教会の鼓笛隊に所属し、こどもおぢばがえりでのパレード出演やお供演奏など、演奏することで周りの皆さんが喜んで下さったことが心に残っていて、「我が子たちにもそんな経験をさせてあげられたらな」と思っていました。 そんな折、ちょうどタイミング良く、鼓笛隊の先生が隊員募集に来られ、我が子3人と近くに住む姪や甥たちも入隊させてもらうことになったのです。 その鼓笛隊は、何年も連続で金賞を受賞している隊で、先生の指導がとても素晴らしく、足手まといになるような低学年の子供たちを快く受け入れて下さり、本当に気長に、熱心に指導して下さることにとても感動しました。 毎年こどもおぢばがえりが近づくと、厳しい特訓が始まります。マーチングバンドのようにドリル演奏もするので、足の運びや前後左右の位置取り、移動のタイミングなどなど、子供たちにとってはとてもハードルが高い難しい練習なのです。 それでも、必死に指導して下さる先生に子供たちが応えてどんどん上達していく姿には、本当に目を見張るものがあります。得意な子も得意でない子も、みんなが心を揃えて一生懸命頑張って、出来なかったことが出来るようになり、一つの形になることが、子供たちの喜びや達成感につながっているように思います。まさに教祖の教えて下さった「一手一つ」の姿だなあと、感動で涙が出てきます。 そして何も出来なかった子が年々上達してくると、年下の子たちのお世話をするようになり、素敵な循環が生まれます。自分たちが今までしてもらったように、次に入隊してくる子たちに心を配れるようになるまで成長してくれるのです。 現在高校生になった姪は、スタッフとして、休日の練習日にはいつも指導者として参加してくれるようになりました。 姪は鼓笛活動や、他の天理教の行事などでお道の方に触れ合えたおかげで、「天理の人は優しくていい人多いよね~」と実感してくれているようです。そして、周りの人も驚くような成長ぶりを見せてくれています。 長男はというと、天理高校に入学し、「軟式野球部に入る!」と意気込んでグローブまで持って行ったにもかかわらず、蓋を開けてみれば雅楽部に入部。私も主人もびっくりしました。その一年後には、年子の妹も同じく天理高校で雅楽部に入り、二人とも演奏活動をとても楽しんでいるようです。 こうやって音楽を通してお育て頂き、演奏活動によって周りの方に喜んで頂き、感動を届けられるのも素晴らしいひのきしんだと有難く思っています。 そんな風に喜んでいた時、実家の父がとても興味深い話を聞かせてくれました。 「昭和の初め頃の話やけど、うちのおじいちゃんが、この小阪の町で小...
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  • 低いやさしい心
    2025/10/17
    低いやさしい心                     兵庫県在住  旭 和世  私には「こんな人って本当にいてるんや~」とずっと思っている人がいます。それは嫁ぎ先の父です。  私は主人と結婚して教会に嫁ぎ、両親と同居生活をするようになって約20年近くなりますが、信じられない事に、父が怒った姿をまだ一度も見たことがないのです! 父は本当に温厚で、真面目で優しい人なのです。誰に対しても同じ態度で、イライラしている姿でさえ見る事がありません。こんなに不機嫌にならない人が世の中にいたのか~?と、いまだに衝撃を受け続けています。 父は母とはお見合いで結婚したのですが、初めて会った時に父が、「今まで私は怒ったことがありません」と母に言ったそうです。母は怒られたり、怒鳴られたりするのが苦手なので、その言葉を聞いて父との結婚を決めたのです。 父は初対面にして、母に「怒らない宣言」をしてしまった訳で、怒るわけにはいかないという事なんです。それでも人間、毎日を機嫌よく暮らすというのは本当に難しい事。私なんて、「今日もニコニコ過ごそう!」と思っていても、ちょっとした事で心が曇って悪天候になったり、時には嵐がやってくる事も。色々な事が起こってくる毎日の中で、こんなにも心穏やかでいられる父を心から尊敬しています。 天理教の教えの一つに、「八つのほこり」があります。人間なら誰しも知らず知らずのうちに溜めてしまう自分中心の心遣いの事です。 「おしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまん」と八つある中で、「怒る」というのは「はらだち」にあたります。  父がある時こんな事を聞かせてくれました。 「芸人の明石家さんまさんっておるやろ。あの人は人に腹立てないらしいんや。『腹立てる人っていうのは、自分の方が偉いと思ってるから腹が立つんや』って言うてはったわ。天理教で言うたら『こうまん』の心遣いという事やわな。『こうまん』やと、自分は偉いと思うから、人の間違いや意に沿わない事があると腹が立って、怒ってまうんやな~」 そして、旭家の先祖が天理教に入信した時の事を教えてくれました。 「うちの初代はリウマチという難病をおたすけ頂く時に、『これからは「よく」と「こうまん」の心をお供えさせて頂きます』と心に定めてたすけて頂いたから、「よく」と「こうまん」の心には気をつけて通らせてもらわんとなぁ」と、信仰の元一日を聞かせてくれたのです。 「よく」と「こうまん」。その父の言葉を聞いて、父は初代の通られた思いを胸に毎日を過ごしているのだと改めて思いました。 というのも、父は偉ぶったり、怒らないというだけでなく、本当に「よく」もない人なのです。「これが欲しい」とか「あれがしたい」とか言っている姿をほとんど見たことがありません。物やお金にも執着のない無欲な人なのです。  そんな父ですが、先日、大教会でビンゴ大会があり、なんとその無欲な父が早々にビンゴになったのです! すると、一緒に参加していた中高生の孫たちが「じぃじ~!じぃじ~!」と大騒ぎです。こんなに若い孫達にキャーキャー言われるおじいちゃんも、そうそういないだろうな~、と笑ってしまったのですが、これも父の人徳だなと思うのです。  当の本人は、「そんなにジージージージーいうのはセミくらいや~」と満面の笑みを浮かべています。孫達が父を慕うのも、日頃から穏やかに子供たちを見守ってくれているからこそだと思います。  今ではまさに聖人君子のような父ですが、初めからそうであったわけではなく、若いころは色々な経験をして、天理教の教会長をつとめることが決まった時に、初代と同じように、「よく」と「こうまん」の心をお供えしたのだと聞かせてくれました。そのおかげで今の私たち家族の仕合わせな姿があるのだと、いつも両親に感謝しています。  それなのに、私はと言えば、ついつい心に埃をためてしまう毎日です。特に子育てが一番忙しかった頃は、予想以上の大変さになかなか喜べず、埃の心ばかり遣っていた事がありました...
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  • 最後のギュー
    2025/10/10
    最後のギュー 岡山県在住  山﨑 石根 私が五代目の会長を務める教会は、今年で創立130周年の節目を迎えました。私の高祖父、つまりひいひいおじいちゃんが初代会長を務め、長きにわたってこの地で代を重ねてきました。 信者さん方と談じ合いを重ねた結果、今年の5月10日にその記念のお祭りを執り行うこととなり、この日に向かって準備を進めていました。 私たちの信仰は、人間が通る手本としてお通り下された教祖の「ひながたの道」と、先に道を歩んで下さった先人・先輩方の道すがら、この二つがあってこその道だと思います。もちろん、絶え間なく頂戴する親神様のご守護は申すまでもありませんが、130年もの間、この教会につながるお互いのご先祖様が懸命に通って下さったおかげで、今日の日を迎えさせて頂いた訳です。みんな感謝の心いっぱいに当日を迎えました。 さて、その報せは記念のお祭りの二日前の5月8日に届きました。夕方に妻の父から電話が入り、妻の母が倒れたというのです。幸い父がすぐに発見したので、救急車を呼んで無事に手術をしてもらったのですが、未だ意識が戻らない状態でこのまま入院するとのことでした。 報せを聞いた妻は、一時は動揺したものの、「教会の130周年に向けてあまりにも忙しすぎて、悲しんでいる暇がなかった」と教えてくれました。悟り上手な妻は、「親神様が私を動揺させないように、敢えてこのタイミングを選んで下さったのかも」と思案していましたが、信者さん方には心配をかけないために、母のことは公表しないよう配慮しました。 ただ、5人の子どもたちには今の状況を伝え、「130周年のおつとめは、感謝の気持ちでつとめるように言っていたけど、もう一つ、おつとめは『たすけづとめ』でもあるから、みんながそれぞれ自分なりの祈りを込めて、おばあちゃんが少しでもご守護頂けるようにお願いしてほしい」と話しました。 賑やかな創立記念の行事が嵐のように過ぎ去り、妻は病院から指定された5月14日に、母に面会に行きました。ところが、てっきり母に会えると思っていたところ、意識がないので、集中治療室で寝ている母の姿をタブレット越しに、リモートで面会するという形をとらざるを得ませんでした。 その日の夜、妻は目をパンパンに腫らして戻ってきましたが、理由は母の病気のことだけではありませんでした。 私共の教会では「みちのこ想い出ノート」というものを作って、信者さん方に自分自身の信仰を書き残してもらうようにしています。これは、確かにお葬式の時に、その方の人生を振り返るための準備という一面もあるのですが、決してそれだけではなく、家の信仰をしっかりと次代に引き継いでいくという目的があります。 今回、前日の13日から奈良県にある実家に泊まった妻は、この機会にと、両親の「みちのこ想い出ノート」を、父から聞き取りをするという形で書き留めて帰ってきたのです。 すると、「親心」とは、聞かなければ分からない、知らないことだらけで、ここでもご先祖様の苦労が身に染みる、初めて聞く話が山ほどあったのです。 父から幼い頃の苦労話を聞き、貧しい中にも祖母が人だすけに励んでいたこと、その信仰を父が引き継いだこと、そして父と母が夫婦で心を定めて通った妻の幼少期の話など、話の節々に「親心」が満ちていたのです。そうして両親が通ってくれたからこそ、今の自分があるのだと、遅まきながら改めて気づくことが出来、妻は感謝の気持ちが抑えられなかったようです。 さて、私たちは祈る術として「おつとめ」を教えて頂いています。それぞれが神殿に足を運び、おつとめをつとめ、子も孫も父もみんなで母の回復を願いましたが、悲しい報せもやはり突然来るのでした。 6月2日の朝3時半頃に、妻から「お母さんの心臓が弱くなり始めたらしい」との電話が入りました。私は当番で岡山市の大教会に泊まっていたので、電話を切るや否や神殿に走りました。もちろん妻も教会の神殿に走り、お互いに違う場所から「お願いづとめ」をつとめました。 しかし、そのおつとめが終わるのを待たずして、4時過ぎに「息...
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  • 記憶に残る活動を
    2025/10/03
    記憶に残る活動を                    埼玉県在住  関根 健一  2025年6月。巨人軍終身名誉監督・長嶋茂雄さんの訃報が、全国の野球ファンのもとに届きました。  長嶋さんと言えば、誰もが認める、日本のプロ野球界を牽引してきたスーパースター。「我が巨人軍は永久に不滅です」の名ゼリフを残した、あの引退セレモニーの時、私はまだ一歳でした。ですから、現役時代の活躍をリアルタイムで見ることは出来ませんでした。  小学3年生から始めたリトルリーグ。当時、チームメイトに「茂雄」という名前の子が何人もいたことを覚えています。それだけでも、長嶋さんが世代を超えて、日本中の野球少年に影響を与えてきた存在だったことが分かります。  長嶋さんのことを、「記録より記憶に残る選手」と評する声があります。もちろん実際には、名選手と言われるにふさわしい数々の大記録を残しています。しかし、そうした記録を見るまでもなく、誰もがその姿を心に深く焼きつけている。だからこそ、この言葉に意味があるのだと思います。  一方、長嶋さんの現役引退から約20年後。1990年代には、野茂英雄さんがメジャーリーグのドジャースで大活躍しました。それ以降、日本の野球選手が海を越え、メジャーリーグで活躍することも珍しくなくなりました。  2000年代に入ってからは、イチローさんや大谷翔平さんのように、メジャーリーグの記録をも塗り替え、世界の野球史に名を刻む日本人選手も現れました。その背景には、旧来の野球理論が変化し、より科学的・効率的なトレーニングが取り入れられてきたことが考えられます。 たとえば、私が子供の頃には当たり前だった「うさぎ跳び」。今では、成長期の子供には弊害があるとされ、トレーニングに取り入れるチームはほとんどなくなりました。また、「根性論」に頼った指導や、体罰による指導もあまり見かけなくなってきました。 こうした流れの中で、SNSなどでは、長嶋さんのような過去の名選手と、現代の選手を比較する議論がよく見られます。 「昔の選手が今の時代にプレーしていたら、あれだけの記録は残せなかったのではないか?」  野球ファンとして、想像を膨らませながら楽しむ分には良いのですが、議論が過熱するあまり、過去の名選手の記録を否定するような風潮も少しずつ現れてきました。  そんな中、あるSNSでこんな意見を目にしました。 「過去に記録を打ち立てた名選手が、もし今の時代に現役だったとしても、時代に合わせた努力をして、結果を残していると思う。時代が彼らをスターにしたのではなく、彼らの努力が彼らをスターにしたんだ」  私はこの言葉に深く納得しました。  どんなに想像しても、現実に過去と今の選手を比べることは出来ません。けれど、過去の名選手が、その時できる最大限の努力を重ね、野球界を盛り上げてくれたからこそ、今に至るまで選手たちが活躍できる場が守られてきたのだと思います。  さて、話は変わりますが、先日、上級教会を会場に開催された「ようぼく一斉活動日」に参加しました。 プログラムの中で、教祖が現身(うつしみ)を隠された明治20年陰暦正月26日のお屋敷の様子を演劇で再現した動画が上映されました。 その動画では、後の初代真柱様をはじめ、天理教の草創期を支えてきた先人たちが、教祖との突然の別れに直面しながらも、未来へ向かう決意を抱く姿が描かれていました。とても勇んだ気持ちになれるものでした。 上映後、参加者同士で感想を語り合う「ねりあい」の時間となりました。私のグループは、同年代の男性Aさんと、私より少し年上と思われる女性Bさん、そして私の三人でした。 AさんもBさんも支部管内にお住いのようぼくで、お二人とも、動画にとても感動された様子でした。感想を出し合う中で、Aさんはこうおっしゃいました。 「昔の先生は凄すぎて、私なんか何もできていないなあと、反省してしまいました」  その気持ち、私も痛いほど分かります。でも、せっかくの機会だから、勇みの種を持って帰って頂きたい。そんな思いで私はこう話...
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  • 砂を噛む日々(後編)
    2025/09/26
    砂を噛む日々(後編) 助産師  目黒 和加子 商店街の「天理看護学院助産学科」のポスターの前で電気が走った如く、私がハッと気づいたこととは何でしょうか。リスナーの皆さんはもうお気づきかもしれません。 空ちゃんが産まれてから救急搬送まで処置をしていたのは、私一人でしたね。どうして手足にチアノーゼを認め、酸素飽和度が90%の時点で院長を呼ばなかったのでしょう。変だと思いませんか。 理由は、新生児の蘇生処置に自信があったからです。以前勤務していた病院で新生児蘇生を数え切れないほど経験し、新生児科のドクターに鍛え上げられ、新生児蘇生法専門コースの認定も持っています。分娩介助よりも、産後の母乳ケアよりも、新生児蘇生の方が得意なのです。 実は産科のドクターの中には、新生児蘇生が不得手な人がいます。うちの院長がそうでした。この程度なら院長を呼ばなくてもよいと判断したのです。 そうです。ポスターの前で気づいたのは、心の奥底にあった慢心でした。 「あの時、自分の経験と技術を過信して、慢心に陥ってたんや…」 新人の頃、先輩から「取り返しのつかない失敗をするのは、自分の得意分野やで。苦手なことは周りに確認しながら慎重にするやろ。だから苦手な分野では大きな失敗はせえへん。自信満々ほど怖いものはない。医療職者の慢心は人の命を危うくする。ベテランが陥る落とし穴。覚えときや」と言われたことが強烈によみがえり、電流となって脳天を貫いたのです。 ベテランと言われる立場になった今、人として助産師として成長しているのか。その逆なのか。空ちゃんの命を危うくした自分が醜く情けなく、神殿の畳に額を擦りつけてお詫びしました。 実は分娩促進剤の投与のことで度々院長とぶつかり、退職しようと思っていた矢先の出来事だったのです。教祖の御前で「後遺症の出る可能性がある三年間、空ちゃんが3才になるまでは辞めません。毎日、祈り続けます」と誓いました。 参拝の帰り、行きと同じ助産学科のポスターの前で立ち止まり、「この苦い経験を助産学科の学生さんの学びの材料にしてもらえたら。そんな機会があったらいいなあ」とつぶやいて帰路につきました。 京都駅から新幹線に乗り、車内販売でアイスクリームを買いました。口に入れるとジャリジャリしません。なんと治っていたのです。 「あ~よかった!」と思いきや、話はこれで終わりません。ここからが本番なんです。 その後の三年間、私は選ばれたように危険なお産に当たり続け、「難産係」と呼ばれる有様。ギリギリの所で踏ん張ること数知れず。教祖へのお誓いを投げ出す寸前の修行の日々を送っていました。 そしてついに、教祖の深い親心が分かるその時が来るのです。 空ちゃんの3才の誕生日直前、院長から産院を代表して日本助産師会の勉強会に参加するよう言われました。講師は県立病院新生児内科部長のA先生。講義後、別室にて個別相談を受けて下さるというので、A先生に空ちゃんのことを話しました。 「さらっとした出血だなと違和感をもったのに、スルーしたのです。そして、蘇生処置が苦手な院長に任せるよりも、自分でやった方が良いと判断してしまいました。慢心が赤ちゃんの命を危うくしたのです。もっと早く院長を呼ぶべきでした」 下を向く私に、A先生は、「あんた、認定受けてる助産師やのに、なんでマスク&バッグせえへんかったん?」 マスク&バッグとは、赤ちゃんの気道に空気や酸素を送り込む蘇生器具のことです。 「バッグで圧をかけると、血液を気道の奥に押し込んで固まってしまうので、酸素は吹き流しで与えました」 「もし院長さんを呼んでたら、マスク&バッグしたと思うか?」 「はい、100%したと思います」 「そうか。それをやってたら肺出血が一気に広がって、その場で亡くなってたで。通常、新生児蘇生は気道を確保したらマスク&バッグが基本やけど、肺出血の場合は例外! やったらあかんのや。 肺出血は満期で産まれた成熟児ではめったにないから、それを知らん産科医や助産師が多いけどな。知らんのも無理ないねん。あまりに少ない...
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  • 砂を嚙む日々(前編)
    2025/09/19
    砂を噛む日々(前編) 助産師  目黒 和加子 ずいぶん前の夏のことです。私が分娩介助をした赤ちゃんが突然、命に係わる事態となりました。新生児集中治療室・NICUに救急搬送された直後から、私の身体に変化が起きます。口の中がジャリジャリして、砂を噛んでいるような感覚に陥ったのです。そのジャリジャリ感は夏が終わるまで続きました。 今回は神様に、助産師として最も厳しく鍛えられたお話です。 担当したのは予定日を10日過ぎた上野由美さん。超音波検査で羊水が急に減少し、胎児の推定体重まで減っていることが判りました。これは胎盤の働きが衰え、子宮内環境が悪化している証拠です。急遽、促進剤を使って分娩誘発することになりました。 薬で陣痛がついてくると順調に進行し、分娩室に入りました。産まれてくる赤ちゃんは女の子で、空(そら)ちゃんと名前がついています。 胎児心拍は時々低下しますが、回復は速やかで午後2時、出産。軽いチアノーゼがありますが、空ちゃんは活発に泣き、元気に手足を動かしています。全身を観察すると、口の中に血液を認めました。産道を通過する際、分娩に伴って出血したお母さんの血液を飲んだようです。これは時々あることで問題にはなりません。 しかし、口の中の血液をチューブで吸引した時、「サラサラした血やなぁ」と一瞬、違和感を持ちました。母体から出た血液は粘り気があり、トロっとしているのが特徴です。この違和感が後になって命に係わることになるのですが、この時、私はまだ気づいていません。 空ちゃんの肌は、ほぼピンク色になり問題があるようには見えません。ただ手先、足先のチアノーゼが残るので、酸素飽和度をモニタリングすると90%。保育器に入れ、酸素を与えると94%まで上昇しました。 「よかった、上がってきた。すぐに正常値の95%になるわ」と安心した途端、急に呼吸が速く浅くなり、一気にチアノーゼが全身に拡大。酸素の投与量を増やしても酸素飽和度は上昇するどころか下降し始め、院長を呼んだ時にはなんと、64%まで低下したのです。 「64%!ありえない!」と叫ぶ院長。空ちゃんの容態は急変、保育器ごと救急車に乗せ、NICUへ緊急搬送となりました。 しばらくして、疲れた顔の院長が戻ってきました。 「新生児内科のドクター総出で救命処置をして下さっているんだが…。部長先生からは『肺出血による肺高血圧症候群と思われます。満期で産まれた赤ちゃんに起こるのは稀です。今後、24時間がヤマです。全力を尽くしますが、かなり厳しい。覚悟してください』と言われた…」がっくり肩を落としています。 出生直後、口腔内にあった血液は産道の母体血を飲んだのではなく、空ちゃんの肺から出血したものだったのです。 「吸引をした時、『サラサラした血やなぁ』と一瞬思ったのに。あの時に気づいていれば、これほどの重症になる前に搬送できたのに…」 空ちゃんに申し訳なくて、自分を責めました。午後5時、長かった日勤が終わりました。 「こうなったら神さんしかない!」 家に帰るやいなや、二日前に出た手つかずの給与を所属教会に送りました。教会ではお願いづとめにかかってくださり、大阪の実家では母が空ちゃんのたすかりを祈ってくれました。 24時間が過ぎ、空ちゃんの命はつながっていましたが、担当医からは「気が抜けない状態は変わらず、72時間を目処としてヤマが続きます」とのこと。 「やっぱり神さんしかない!」 家中のお金をかき集め、再びお供えの用意をしていると、主人が「僕の給与もお供えさせてもらおうね」と言ってくれました。 その当時、主人は天理教のことをほとんど知らなかったのですが、私の様子を見るに見かねて、なんとか力になってあげたいと思ったようです。見よう見まねで一緒におつとめをし、夫婦で空ちゃんのたすかりを祈りました。 72時間が過ぎると、空ちゃんの容態が安定してきました。担当医から「命の心配はしなくてもいい状態になりました。しかし、重症の低酸素状態が長かったので、脳のダメージは大きいでしょう。後日、MRIで確認します」と連絡が入りました。 ...
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