• 慎みの心
    2026/03/13
    慎みの心 大阪府在住  山本 達則 神様のお言葉に、 「知らず/\の道、分からず/\の道、みす/\の道ある。これ三つ出掛けたらどうもならん。(中略)暗がりの道が見えてあるから、諭さにゃならん」(M24.7.24) というお言葉があります。 自分が知らないうちに誰かを傷つけていたり、嫌な思いをさせてしまったり。教えられたことの意味が分からずに間違ってしまうことや、分かっているのにみすみす間違った行動をしてしまうことも…。これらは、私たちの日常で少なからず起きてしまうことです。 以前、電車に乗った時の話です。私が乗り込んだ時、車内には空席が沢山ありましたが、私は座席に座ることなく立っていました。次の駅に着くと沢山の方が乗り込んできて、たちまち満席になりましたが、そこに後から高齢の女性が乗って来ました。すると座っていた一人の女性がすかさず席を立ち、その高齢の女性に席を譲りました。 高齢の女性は恐縮しながらも席に着き、譲った方の女性も何事もなかったようにドア付近に立ちました。その時、私のすぐ近くにいた若い男性も、同じように高齢の女性に気がつき、腰を浮かせましたが、女性が席を立つ方が少し早かったので、男性はそのまま席に着きました。また、同じくそばに座っていたサラリーマン風の男性は、同じように高齢の女性に気づいていながら、携帯に夢中で気がつかないふりをしているように見えました。 この場面、最初に席を譲った女性に関しては、素晴らしい人だすけの行動であることに疑いの余地はありません。しかし、もう少し広くこの場面を見てみると、席を譲ろうと腰を浮かせた男性にとっては、先を越されてしまった悔しい出来事だったかもしれません。 また、気づかないふりを決め込んだ男性の様子は、私には少し不機嫌なように見えました。本来は自分も席を譲るべきだと分かっていながら、気がつかない振りをしてしまった自分と、即座に譲ることが出来た女性との違いに自己嫌悪を感じていた、とは考えすぎでしょうか。 話は変わりますが、ある時、地域の方々と街のゴミ拾いをさせて頂いた事がありました。普段歩いているだけでは気がつかないゴミが沢山あることに、改めて気づいた一方で、一緒にゴミ拾いをしている人たちの言動が気になりました。 「こんな所にポイポイとゴミを捨てる事が出来る人間は、ろくな人間やない」「誰が捨てているのか分かったら、家の前にまき散らしてやりたい」「こんなやつ、バチが当たったらええねん」などなど…。現に、駅の近くの歩道を、キョロキョロとゴミ箱を探しながら歩いている方が、結局見つからなかったのか、歩道の端っこに申し訳なさそうに、そっと空き缶を置いていく。そんな場面に遭遇したこともありました。 それにしても、街をきれいにするための行動をしながら、自分自身の心を憤懣で汚してしまっている、実に勿体ないことです。 自分ではそんなつもりが全く無いのにも関わらず、どこかで誰かに不満を抱かせてしまっている。先ほどの電車での場面がまさしくそうで、席を譲った女性は何一つ間違った事はしていません。そうした、むしろ賞賛に値するような行動でさえも、自分自身の知らない所で誰かが不満に思ってしまう事があるのです。 また、「こちらの選択が正しい」と分かっていながら、そうできないという事も多々あります。電車の中で、高齢の方に席を譲ったほうが自分自身も気持ちがスッキリすると分かっていながら、行動に移せないこともあるのです。さらには、ゴミ拾いの場面のように、折角良いことをしているにも関わらず、愚痴や不満によってみすみす心を濁してしまうこともあります。 私たち人間には、「心の自由」があります。しかしその自由は、目の前の現象に対してどう考え、どう行動するか、という所までで、その行動に対しての結果はまったく自由ではありません。 その結果を、喜べるような結果に近づかせるためには、「神様から見れば、私の行動はどこかが間違っているのかも知れない」「知らない間に誰かに迷惑をかけたり、嫌な思いをさせているかも知...
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  • おつとめメンドクサイ…
    2026/02/27
    おつとめメンドクサイ… 岡山県在住  山﨑 石根 2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。岡山は震源地から遠く離れていたので、当初はあまり気にかけていなかったのですが、事態は刻一刻と悪化していき、私たちはメディアを通して、その被害の尋常でない様を目の当たりにすることになりました。 ちょうど翌日の12日は、当教会で「おとまり会」という子どもを対象にした行事がありました。参加してくれた小学生たちと一緒に夜の時間を過ごしたのですが、テレビは震災の報道ばかりで、原発事故に関する緊急発表などもあり、みんなでただならぬ空気を感じていたことをよく覚えています。 あの日、あの時、あの頃、恐らく日本の多くの方が、大きな不安と共に落ち着かない日々を過ごし、「被災地のために何かしたい、何かしなければ」と思いながらも、何も出来ないことへの焦燥感や無力感を抱いたのではないかと思います。そして、世の中は忽ち自粛モードになりました。 天理教教会本部では、翌日からすぐに「お願いづとめ」がつとめられました。また、12日、13日、14日の三日間、教会本部にならい、国々所々の教会でも、正午に時間を合わせて真実を込めたお願いづとめがつとめられ、私も一生懸命祈りました。 震災から二か月が経った5月12日から16日、私は招集を受け、被災地を訪れました。これは「天理教災害救援対策本部」のもとで実施された取り組みで、被災地において特に子ども達を元気づける活動をするため、天理教の中で学生や子ども達のお世話に携わっているメンバーでいくつかのチームが結成されたのです。私は以前、児童養護施設で心理職として勤務していた経験から声がかかり、被災地で「子ども会」を開催するチームに加えて頂きました。 私たちのチームは6名でしたが、折り紙やバルーンアートが得意な方、プロのマジシャンとして活躍している方、ピアノが得意でリトミックが出来る方など、頼もしいメンバーばかりでした。私たちは、「天理教災害救援ひのきしん隊」という、現地で具体的な支援活動をされている方々と同じ宿営地に宿泊し、期間中、一つの保育所と六つの避難所で実動しました。 具体的には、避難所の子ども達と90分ほどの時間枠でとにかく元気に遊ぶプログラムを組みました。バルーンアートや折り紙から始め、大縄跳びやボール遊びなど身体を使った外遊びに展開していき、最後はマジックを披露し、避難所生活のストレスを解消してもらうことを目指しました。 どの避難所でも、不自由な環境で避難生活を送っておられることに、胸が痛みました。私たちが出来たことは本当に些細な活動でしかなかったのですが、子ども達が思いっきり遊び、それを見ている大人の方々が笑顔になる、それだけでこちらの気持ちも救われました。 私たち自身ももちろん緊張もしますし、感情が大きく揺れ動きます。避難所から避難所へ移動する時には、被災地の衝撃的な辛い現状を目の当たりにするので、活動に際して気持ちのオン・オフが非常に難しかったのを覚えています。 一か所だけ訪れた保育所では、自分たちのほうが辛い立場にあるはずの子ども達が、「さんぽ」と「ありがとうの花」という手話を用いた歌を、私たちへのお礼としてプレゼントしてくれ、涙をこらえるのに必死でした。 特に私は、当時、我が子が4歳と2歳でちょうど同年代でしたので、あまりにも身近に感じてしまい、励ます側が励ましてもらっているような状況に、何だか後ろめたさまで感じてしまいました。 最後には園長先生が、「天理教さんには救援物資をたくさん頂き、炊き出しもずっとして下さり、今日は心の栄養まで頂きました」という言葉を下さり、それに支えられたような心持ちでした。 被災地から帰宅した私は、教会の信者さん方にこの時の報告をしました。原稿にまとめて話すつもりだったのですが、いざ言葉にすると、涙があふれて止まらなくなり、うまく伝えられなかったのです。それは、自分がしてきたことがあまりに小さく、何も出来なかったのではないかという申し訳なさを感じていたからだと思います。 ...
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  • なぜ、ごみを拾うのか
    2026/03/06
    なぜ、ごみを拾うのか 東京都在住  松村 登美和 今月は野球のWBC・ワールドベースボールクラシックが開催されます。日本代表チームは、3月6日から10日まで、東京ドームで第一次ラウンドを戦い、そこを勝ち抜くと、アメリカに試合会場を移して、準々決勝、準決勝、決勝と試合が行われます。 前回大会は2023年の開催でしたが、どの試合も手に汗握る展開で、最後は決勝で、大谷翔平投手がアメリカに投げ勝つ感動的なラストシーンで幕を閉じました。3年前の大会は私も連日テレビにくぎ付けで、実に楽しい時間を過ごしました。 その前回大会は、日本チームの活躍が連日ニュースを賑わせましたが、その中で、野球以外のところで採り上げられた出来事もありました。 それは日本チームのベンチの綺麗さについてです。アメリカのある野球チームの監督が、SNSに決勝戦の試合中の日本ベンチの画像を投稿し、「日本のダッグアウトの綺麗さに驚く時間を取ってもいいか?」とつぶやきました。 すると、そのつぶやきに対して多くの人が賛同のコメントを返しました。なぜなら、写真に写ったベンチ内がきちんと整頓されていて、地面にはゴミ一つ落ちていなかったからです。 アメリカでは、試合中に選手がヒマワリの種の殻を地面に吐き捨てたりするのは普通のこと。かつて大リーグに在籍した日本のあるプロ野球選手によると、飲み終えたペットボトルや、食べ終えたお菓子の袋をベンチに捨てるのは通常の風景で、彼の地では「掃除する人の仕事がなくなったらどうするんだ」という空気感なのだそうです。 その日本人選手は、「日本にいる時は、落ちているごみは拾ってごみ箱に捨ててましたけど、そのように言われると、下に捨ててもいいか、という気持ちになってしまいましたね」とテレビで話していました。 また、今年は6月にサッカーのワールドカップも開催されます。この大会でも、日本人のごみ拾いが世界の注目を集めています。日本代表チームの選手やスタッフが、ロッカールームを綺麗に掃除、整頓したり、日本人サポーターが試合後にスタンドのごみ拾いをしたりする風景が恒例となっています。カタールで行われた前回4年前の大会では、国際サッカー連盟の大会組織委員会が日本のサポーターを表彰しました。 表彰式では、「自発的に動いていたことに感銘を受けた」「モロッコやチュニジアのサポーターが真似をするなど、すでに他国のモデルになっている。カタールや他の国にも広めたい」との挨拶があったそうです。 日本人サポーターの行いが良い手本となり、他国の人が真似をし始めている。その姿を自分の国や、他の国にも広めたい、と話してくれたのです。 大谷翔平選手のごみ拾いも有名です。試合中、グラウンドに落ちているごみをさりげなくポケットに入れる様子が、しばしば見られます。また、大谷選手の元チームメートで、前回WBCの最後の打席で大谷選手と対決したアメリカ代表の主将トラウト選手が、大谷選手と同じようにグラウンドでごみを拾う姿も、YouTubeで見ることが出来ます。 このごみ拾いの輪が広がる話を聞くと、天理教の神様、天理王命様のあるお言葉が頭に浮かびます。 「一名一人の心に誠一つの理があれば、内々十分睦まじいという一つの理が治まるという」。 少し難しい言葉使いですが、「誰か一人が他人や周囲を思いやる、嘘偽りのない誠実な心を持っていれば、いずれ家庭でも職場でも、内々全体が睦まじく治まっていく」という意味です。 なぜかと言うと、誠実な姿は、少しずつでも必ず人に伝染していくからです。一人、また一人と誠実な心が伝わっていき、いずれ全体が優しい雰囲気に包まれていく。天理教では、そう教えられています。その証拠の一つが、大谷選手や、ワールドカップでのごみ拾いの広がりなのだと思います。 天理教では「誠」とは「少しでも人のよいよう、喜ぶよう、救かるように心を働かせること」と教えられています。 ですから私たちは、「ごみを拾うことで、掃除をする人の仕事を奪ってしまう」とは考えず、「ごみを拾うことで掃除をする人の手間が省けて、その...
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  • 楽しい夏のセミナー
    2026/02/13
    楽しい夏のセミナー フランス在住  長谷川 善久 天理教の教会では、親子三世代が一緒に暮らしている様子は、割とどこにでもあるものだと思います。しかし、日本とフランスにおける三世代同居の割合を調べてみると、日本が9.4%、フランスではわずか1%ほどであり、かつどちらの国も年々減少傾向にあるようです。 おじいちゃん、おばあちゃんが孫と一緒に平穏な日々を過ごす天理教の教会は、そのライフスタイルだけをとっても、社会的に希少価値が高まっていることが分かります。 フランスにあるヨーロッパ出張所も大所帯で生活しています。現在、同じ敷地内で寝食を共にしているスタッフは、上は50代後半から下は1歳まで、一家族、一夫婦、6人の独身者の計13人が暮らしています。ここに日中は外から通う70代後半のひのきしん者が一人、30代の勤務者が一人加わって、毎日神様の御用を賑やかにつとめています。 正直に言って、このような共同生活ではストレスも溜まりやすいもの。まして日本人が外国に住んでいるのですからなおさらです。それだけに、普段から生活の意識を自分中心に置くのではなく、親神様、教祖を中心にして、人様をしっかりと内側に引き寄せる努力が大切になってきます。 お互いに関心を持ち合い、ささいなことからでも、温かいコミュニケーションを通して信頼関係を保つことは欠かせません。私も所長の務めとして、お互いが自然に円滑に触れ合えるような雰囲気を作り上げることを、絶えず意識しています。 色々と苦労は絶えませんが、最近の社会学や心理学の研究でも、「共同生活は人々の幸福感に良い影響を与える」と分かってきたように、実際、私自身の経験からもこの説に間違いはないと思っています。 そんな、ストレスも溜まれば幸福感も高まる共同生活空間である出張所を会場に、昨年の夏、宿泊型の教理セミナーが開催されました。 一週間にわたる授業では、形式にとらわれることなく、生徒は疑問に思ったことはいつでも質問ができます。また、教え方も講師の自由裁量を認めていて、例えば教祖の道すがらについては、劇画『教祖物語』の場面描写を用いた授業もありました。 私が講師を担当した『みかぐらうた』では、お歌の意味の理解に加えて、受講生が一人で歌えるようになることを目標にした、日本人に対してはやらないであろう指導を行いました。 と言うのも、フランスでもみかぐらうたは日本語で歌われており、フランス人には簡単には覚えられません。参拝に来るほとんどの方は、翻訳冊子を見れば意味は理解出来ますが、日本人信者のように自信を持って歌うことは難しいのです。 もし一人ひとりが、鳴物に合わせてみかぐらうたを歌う事が出来るようになれば、彼らももっと、おつとめに心を込めることが出来るようになり、月に一度の月次祭も楽しく参拝出来るのではないかと思いついたのです。 そこで、日本語が出来ないのに、日本のアニメソングをカラオケで上手に歌う外国人にヒントを得て、独自にみかぐらうたのカラオケを作成しました。そして、授業では一人ずつ何度も何度も繰り返し歌いながら、言葉の意味は同時に理解出来なくても、教祖が教えられた言葉の響きや調べを身体で感じてもらうよう努めたのです。人生で一度もカラオケに行ったことがないという人もいましたが、勇気を出して一人で歌ってもらいました。 そのようなセミナーの初級クラス参加者5名の中に、子供のない高齢者夫婦がいました。この夫婦は古くから出張所にご縁があり、一度おぢばがえりしたこともあったのですが、旦那さんの気難しい性格と様々な状況が重なり、信仰に対して距離を取る時間が長く続いていたのです。 そんな夫婦でしたので、セミナーに参加されると聞いた時は、もしかしたら旦那さんによって、場が乱されるような展開があるかも知れないと、若干の不安が頭をよぎりました。 セミナーでは、朝、昼、夜の三食を講師やスタッフも受講生に混ざって一緒にとります。毎食20名以上が一緒に食べる賑やかな時間となっていました。普段は二人だけで過ごしているこの夫婦...
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  • 事故で喜べた話
    2026/02/20
    事故で喜べた話 福岡県在住  内山 真太朗 私がお預かりしている教会につながる、天理の高校に通う男の子から、「学校を辞めたい」という相談がありました。一年生の夏が過ぎた辺りから精神的にしんどくなり、学校に行けなくなってしまったとのこと。 それでも何とか頑張って続けてもらいたいと、彼と話をするためにおぢばへ帰り面会しましたが、見るからに病んでしまっている様子。聞けば、精神科に通院しているといい、学校もこれ以上休めば二年生への進級は出来ないという所まで来ていました。私はこの状態では退学もやむを得ないだろうと思い、今後の相談をさせて頂くために学校と連絡を取りました。 先生方との面談まで少し時間があったので、本部神殿前の駐車場に車をとめ、参拝をしました。参拝を終え、駐車場に戻り車を発進させた途端、横から来た車とぶつかってしまいました。相手の方の無事を確認し、警察を呼んで事故処理をしてもらいましたが、車のフロント部分がぐちゃぐちゃに潰れてしまい、これはしばらく地元には帰れないのではと思いました。 警察の人に確認すると、「ライトも付くし車も動くので、大丈夫ですよ」と言われ安心しました。しかし、若者の人生を左右するこの大事な時に、神様のお鎮まり下さるおぢばの目の前で事故を起こしてしまい、これは何か神様からのメッセージが込められていると思わずにはいられませんでした。 真っ先に考えたのは、車が前進している時に事故を起こしたということは、自分は今、彼に学校を辞めさせようと思っているけれど、それを神様がお止めになっているのではないだろうかと。しかし、どう考えても今の状況では再び学校に通うことは出来そうにありません。 判断に困った私は、大教会長様にお伺いしてみようと、すぐに電話で連絡を取りました。学生本人の状況と私が起こした事故までの一連を報告したところ、このようにお話し下さいました。 「それは恐らく、車がその子の身代わりになったんだと思う。このままいけば、その子は自ら命を絶っていたかもしれない。そこを車が代わりに潰れてくれたんだから、神様から命をつないで頂いたと悟って、前を向いていこう」 なるほど、私の中には全くなかった悟りをお話し頂きました。ただ、心の中では、「車は完全に潰れたわけじゃないし、このまま地元まで帰れそうだしな…」と、大教会長様のお話に対して若干疑いの心がありました。 結果的に、その日の話し合いで学校を中退することが決まり、そのまま地元の福岡へ連れて帰ることになりました。 車の後部座席いっぱいに彼の荷物を積み、その日のうちにフェリーに乗り、翌朝福岡に到着しました。港に着いて、彼を助手席に乗せ高速道路を走っていた時です。前の車が急にブレーキをかけたので、やばい!ぶつかる!と思い、すぐにブレーキを踏み、何とかギリギリぶつからずに停止しました。と思った瞬間、後ろからドーンッ!と追突され、その反動で前の車にぶつかり、私の車は横転してしまいました。 とっさに、「あ、これ、命が終わるかな?」と覚悟しました。ところが、「あれ?どこも痛くない…」助手席の彼に「大丈夫か?」と聞くと、「大丈夫です」と言うので、「よし、脱出するぞ!」と、横転した車のドアを二人がかりでこじ開け、何とか外に出ることが出来ました。 車の上から状況を見ると、四台が絡む玉突き事故。私の車は大破し、今度は完全に再起不能となってしまいました。しかし、乗っていた私たち二人は身体のどこにも痛みがなく、無傷でした。幸い、車のうしろに満タンに積んでいた荷物がクッションとなり、割れたガラスの破片からもガードしてくれ、傷一つ負わずに済んだのです。 その時、ハッと、前日に大教会長様から言われたことを思い出しました。 「車が身代わりに…」まさにたった今、車が身代わりになって命をたすけて頂いたのです。自分の車が大破しているという絶望的な現実を前にしても、なぜか私の心はとても明るかった。命を与えて頂けたんだ、有り難い!と心底思うことが出来ました。 そして彼には、「私...
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  • 地域に「誠」の心を
    2026/02/06
    地域に「誠」の心を 埼玉県在住  関根 健一 一昨年の春から、地域で「Clean up & Coffee Club」(クリーンアップ・アンド・コーヒークラブ)という新たな活動を始めました。頭文字をとってCCC(シーシーシー)と呼ばれる活動で、コロナ禍になり、人とのつながりが疎遠になってしまったことを憂いた青年が、東京で始めたものです。 活動はシンプルで、簡単に言えば地域のゴミ拾いなのですが、ただ街をきれいにすることだけではなく、地域で友達を作ること、そして地域において「ただ居るだけでいい場」を作ることを目的としています。運営本部は一般社団法人化もしており、やりたいと思った人が気軽に始められるようなサポート体制も出来ていて、今では全国50か所以上で開催されています。 私も東京都内で始まった活動の様子をSNSで知り、ちょうど公民館で行っていた地域交流のイベントがコロナ禍で出来なくなった時期でもあったので、いつか地元でも開催したいと思っていました。 そんな矢先に、知人を通して開催方法や本部担当者への連絡先などを知り、準備を進めることが出来ました。そして、手探りながら地元富士見市の名を冠した、第一回「CCC富士見」の開催に至り、現在、一年半以上続けることが出来ています。 このイベントは親子連れの参加者も多く、子供たちにはいつも助けられています。我れ先にゴミを見つけ、自分の背丈に近い長さのゴミばさみを使い、一生懸命にゴミを拾ってくれる姿は、微笑ましく映ると共に、我々大人たちを勇んだ気持ちにさせてくれます。 そして、ゴミ拾いをしていて気付くのが、タバコの吸い殻の多さです。携帯灰皿が普及して、紙タバコから電子タバコに変える人が増えてきたこともあって、昔ほど落ちてはいないものの、数でいうと他のゴミに比べて圧倒的に多いのが現状です。 CCCの参加者の中には、ほとんど喫煙者がいないこともあり、タバコの吸い殻が落ちていると、「どうしてこんなにタバコの吸い殻が多いんだろう。だからタバコ吸う人って嫌い」と、誰からともなく愚痴がこぼれ始めます。 確かに吸わない人から見れば、タバコは生活に全く必要がないどころか、目の前で吸われれば副流煙が発生し、悪影響さえあるものです。私も昔からタバコが嫌いなので、その気持ちはよく分かります。 そんな会話が耳に入ってきた時に、ふと昔聞いた上級教会の親奥様の言葉が頭の中を過りました。 「教会はね、心のゴミを捨てに来るところなんだよ。でもね、たまにゴミを拾って帰る人がいるの。せっかく教会に運んで来たのに、ゴミを拾って帰っちゃもったいないよね」。 教会でお茶を頂きながら談笑していた時の何気ない一言でしたが、なぜかその言葉が心に残って、今でも一緒に聞いていた妻と時折思い出して話題に上ります。 教会では、おつとめやひのきしんをつとめることで、心の埃を落として帰ります。ですが、たまにせっかく落とした埃を拾うかのように、他人の悪口や不満を垂れ流して帰る人がいるのが残念なんだ、という意味で仰ったのだと記憶しています。 ともすると、周りの人に同調して悪口を言ってしまいそうになる私に、親奥様の言葉がブレーキをかけてくれた気がしました。 私が地元で始めた「CCC」の表向きの目的は、地域に仲間を作ることですが、私自身は心の中で親神様、教祖への感謝を忘れずに「ひのきしん」の精神でゴミ拾いをしています。 自分たちが暮らす街を汚すのは、もちろん褒められた行為ではありませんが、ゴミを捨てた人を責める前に、こうしてゴミを拾えるのも親神様のご守護によって身体が動かせるからであることを実感します。参加者に天理教の教えを具体的に説くわけではありませんが、やがては皆さんに、私の行いを通して「成程」と思ってもらえるように心がけています。 神様のお言葉に、「成程の者成程の人というは、常に誠一つの理で自由という」とあります。 「誠」を辞書で調べると、「言葉や行いに作りごとがない。真実の心」と出てきます。一方、大正時代に宮森与三郎という先人の先生が、「誠」についてこう書き残しています。...
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  • をやの代り
    2026/01/30
    をやの代り                      千葉県在住  中臺 眞治 今から四年前のある日、市役所から電話がかかってきました。 「60代の男性を一人、今日から数日でいいので天理教さんで預かってもらえませんか? 一人にすると自殺してしまう可能性が高くて…。入院させてあげたいんですが、それにはどうしても時間がかかるんです」とのこと。  私は「大丈夫ですよ。どうぞ連れてきてください」と答え、その方が来るのを待ちました。 40分ほどして、市役所の職員さんがその方を連れて来られました。早速部屋までご案内したのですが、その方は部屋の前までは来たものの、一向に中に入ろうとしませんでした。 私と職員さんが「どうぞどうぞ」と言っても、首を何度も横に振りながら、「ダメだ。自分は悪い人間なんだ!死ぬべきなんだ!」と繰り返すばかりで、私たちも戸惑ってしまいました。 「大丈夫ですよ。何も気にしないでください」と何度伝えても首を横に振るばかり。そんなやり取りを20分ほど繰り返していました。 罪悪感や自己嫌悪の感情に心が支配され、あきらかに心を病んでしまっている様子でした。どうしたら良いのだろうかと途方に暮れていたその時、当時4歳だった娘が近づいてきました。 そして、その男性の横に立ち、顔を見上げながらゆっくりと穏やかな声で、「おじさん、ここはね、神様がいるところだから、大丈夫だよ」と言ったのです。すると男性は「うん」と大きくうなずいて、部屋の中へと入っていきました。その光景を見た市役所の職員さんは、娘に「そうだよね。ここには神様がいるもんね」と笑顔で言ってくれたのでした。 その日の夜、妻に一連の出来事を話すと、「え?それ、まこちゃんが言ったの?」と驚き、ぽろぽろ泣きながら娘に近づいて、たっぷりたっぷり褒めていました。後日、男性は無事に入院することができ、市役所の職員さんもとても喜んで下さいました。 この出来事から4年が経ち、娘は8歳になりました。つい先日の話になるのですが、学校から帰ってくるなりその日の出来事を聞かせてくれました。 「先生がね、蜂に2回刺されたんだって。でもね、大丈夫だったんだって。何でだろうね?って聞くからね、それはね、神様がたすけてくれているんだよって教えてあげたんだ」とのこと。  私はその言葉を聞いてとてもあたたかい気持ちになり、「それはとても大切なことを教えてあげたね。お父さん嬉しいよ」と伝えました。  今後、子供たちがどんな大人に育っていくか、どんな運命を辿っていくかは私には分かりません。しかし、どうであったとしても、自分の人生をしっかり受け止め、前向きに生きていってほしいと願っています。そして、そのための支えとして、信仰を伝えていきたいと考えています。  時々夫婦で、「どうしたら子供たちに信仰が伝わっていくのだろうか?」と話し合うことがあります。8歳と6歳の子供たちに「おつとめの時間だよー」と声をかけても、「今は遊んでるからムリー」と返される始末。なかなか先は長いなと感じています。  子育てについて、天理教では「をやの代りをするのや」(M21.7.7)と教えて下さっています。ここでいう「をや」とは神様のことであり、「をやの代りをするのや」とは、子育ては神様の代わりをさせて頂くものであるということを意味しています。  人間世界を創造し、今も絶えずご守護をお与え下さっている神様の代わりとは、何とも身の引き締まる思いがします。それは、子育てを通して、私たち夫婦が神様の大きな親心にどれだけ近づいていけるのかが問われているということです。そう考えると、親としての自分をとても未熟に感じてしまいます。  少し話は変わるのですが、私はこれまでの人生で「親孝行」や「親孝心」という言葉を意識して生活したことはほとんどありません。両親のことを思い浮かべた時、感謝や尊敬という感情が自然と湧いてくるからです。  なぜ、今、自分がそのように思えているのか。それは、両親が神様の大きな親心に近づく努力を日々積み重ねていたからであり、どんな...
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  • 気が付かないまま、守られている
    2026/01/23
    気が付かないまま、守られている 東京都在住  松村 登美和 先日、インターネットを見ていると、「生活定点」という名前の生活意識調査が目に留まりました。国内の大手広告代理店の研究所が二年に一度行っている調査で、2024年の調査結果が発表されていました。 質問の一つに、「あなたは幸せですか?」という問いがあり、その回答に「幸せ」と答えた人が73.5%、「不幸せ」と答えた人が5.3%、「どちらともいえない」と答えた人が21.2%という結果でした。それを見て、私は「幸せ」と答えた人が思ったより多いなと感じ、なんとなくホッとしました。 続いて関連質問を見ていくと、「あなたが欲しいものは何ですか? 三つまで回答してください」というものがありました。 これに対する答えの上位3つは、「お金」が61.8%、「健康」が47.1%、「安定した暮らし」が41.7%。これについては、やはりお金を求める人が多いよな、と思ったのが率直な感想でした。 ちなみに余談ですが、私は現在60歳です。この調査では年代別の集計もされているのですが、「欲しいもの」に対する60代の回答の1位は、「お金」ではなく「若さ」でした。ここは実に共感を覚えるところでした。 さて、「欲しいもの」の1位、2位が「お金、健康」、3位が「安定した暮らし」という結果を見て、しみじみ思ったことがあります。それは、お金があり、体が健康であっても、「暮らしが安定している」こととイコールではない、ということです。 私は30年近く天理教の教会長を務めていますが、この間、多くの人と出会ってきました。その中には、お金は持っているけれども、暮らしが安定しているとは感じていない人、身体に疾患があっても、暮らしはしっかり安定している人など、様々な人がいます。要は、自分の心のあり方、物事の受け止め方によって、暮らしが安定するかどうかが決まってくる、そのように感じます。 その「暮らしが安定する物事の受け止め方」を身につけることが出来るのが、天理教の信仰の有り難いところです。 少し紹介したいと思いますが、天理教の神様は、天理王命(てんりおうのみこと)というお名前で、親しみを込めて私たちは「親神様」とお呼びしています。 この親神様は、十全の守護を下される神様です。「十全」とは、十分完全ということ。つまり何も欠けることなく完全に、私たち人間や、人間が生きている地上のあらゆることをお守り下されている神様、ということです。 その御守護の具体的な働きを、天理教の教祖「おやさま」は、イメージしやすいように、神様の名前を付けて教えて下さいました。その一つに「くもよみのみこと」という名前のお働きがあります。 「くもよみのみこと。人間身の内の飲み食い出入り、世界では水気上げ下げの守護の理」と教えられています。 飲み食い出入りとは、口から食べて、胃で消化して、腸で栄養を吸収し、血液に乗せて体の隅々に養分を行き渡らせ、お尻から不要物を排泄する。つまり、消化器系や循環器系の働きのことです。 水気上げ下げとは、空から雨が降り、地面に浸み込んで、土の中の養分もろとも稲や野菜が吸収し、育つ。そして水分は蒸発して空に上がり、雲となり、また雨が降る。そうした地球環境の循環の御守護のことです。親神様はそのように、私たちが普段あまり意識をしていない中で、確実に私たちを生かし、守って下さっているのです。 以前、とあるご婦人に、この親神様の御守護の話をしました。するとその方が「なるほど、よく分かります」と仰いました。天理教のことは全くご存知ない方だったので、「どうして分かるんですか?」と逆に聞き返しました。 そのご婦人が言うには、一年前に息子さんが結婚をした。ところが奥さんになった方は食が細く、体も細い。ご婦人は心配して、お嫁さんに「無理をしてでも食べなさい」と促して、食事の量を増やしました。 すると、ふっくら健康そうに見える体になったのに、ある日突然体調を崩し、倒れてしまった。診察を受けると、「お母さんも結果を一緒に聞いてください」と同席を求められました。悪い病気かと思...
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