• 第481話『見ること、聞くこと、感じること』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】小説家 徳冨蘆花-
    2024/11/16
    群馬県の伊香保温泉でこの世を去った、明治・大正期の文豪がいます。
    徳冨蘆花(とくとみ・ろか)。
    幼少期より病弱だった蘆花は、自分の心や体の変調に敏感でした。
    破天荒で自由人。時にわがまま、傍若無人。
    でも、こよなく自然を愛し、体を整えるために旅を好み、しばしば、伊香保温泉を訪れていました。
    自分に海が必要とあらば、神奈川の逗子で暮らし、山間を欲すれば、伊香保におもむく。
    そして晩年、妻と農業をやりながら住んだ地は、東京、千歳村粕谷。
    現在の世田谷区、蘆花公園です。
    彼の名がついた庭園には、今も旧宅が保存され、緑豊かな自然が残っています。
    徳冨蘆花の名を世に知らしめたのは、明治31年11月29日から国民新聞に連載された小説でした。
    題名は『不如帰(ほととぎす)』。
    主人公、浪子は、実家の継母に苛められ、嫁いだ先の姑に苦しめられ、やがて夫は日清戦争に出征。
    ひとりになった彼女は結核となってこの世を去る、というストーリー。
    流行の兆しがあった家庭小説というジャンル、そして、女性の苦悩をひたすら描いた斬新さと、結核という当時の感染症のリアルな描写に、読者は次号を待ち望みました。
    この小説は、「あ丶辛い! 辛い! ――最早(もう)婦人(おんな)なんぞに――生まれはしませんよ。」という流行語を生みました。
    さらに、夫の出征を見送るシーンで、浪子がハンカチを振ったことを受け、「別れ」に「ハンカチを振る」ことがスタンダードになったと言われています。
    蘆花は、逗子にいた頃、ある女性から聞いた逸話を、『不如帰』という小説に脚色したと、自ら認めています。
    彼は生前、よく知人に話していました。
    「私は、見たこと、聞いたこと、感じたことしか、書けない」
    ゼロから想像して書くひとを決して否定はしませんでしたが、自分の流儀は、あくまで、自然主義。
    この世を美化しない。ファンタジーでごまかさない。
    そのことで周りとの軋轢を深め、時に誹謗中傷を受けましたが、彼は終生、己の主義を貫いたのです。
    あえて茨の道を選んだ作家、徳冨蘆花が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第480話『誰かの真似をしない』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】絵師 円山応挙-
    2024/11/09
    群馬県立近代美術館にその絵が所蔵されている、江戸時代の大人気・絵師がいます。
    円山応挙(まるやま・おうきょ)。
    応挙と言えば、先月、新たな発見を、ネットや新聞が大きく報じました。
    それは、絵師として人気を争った、かの伊藤若冲(いとう・じゃくちゅう)との初の合作屏風が見つかったのです。
    若冲と応挙、それぞれが得意とした題材を描いた、初の合作屏風。
    これは「驚くべき発見です!」と美術史家で、明治学院大学教授の山下裕二(やました・ゆうじ)さんは語ります。
    左の屏風、左隻は若冲が鶏を、右の屏風、右隻は応挙が鯉を描きました。
    発注者が別々にお題を与え、依頼したものだと思われますが、当時、人気を二分していた二人にとっては、まさに競作、競い合った、稀有な一品です。
    この作品は、来年6月21日から8月31日まで大阪中之島美術館で開催の「日本美術の鉱脈展 未来の国宝を探せ!」で公開されます。
    京都のひとに、いまだに「応挙さん」と親しみを込めて呼ばれる、唯一無二の画家、円山応挙。
    彼は当時としては珍しく、どの流派にも属さず、生涯仕えた師匠もいませんでした。
    室町から400年続く狩野派の勢いは止まらず、中国の絵画の影響も大きかったその時代に、なぜ、彼は独学で成功を収めることができたのでしょうか。
    貧しい農家に生まれ、10代で奉公に出てから30代前半まで、ひたすら食べるために働き、絵師として生計が立てられることなど、夢のまた夢。
    ただ、好きな絵だけは、画き続けました。
    しかも彼が大切にしたのは、目の前のものを正確に画く技術。
    愚直なまでに、今、見えるものを忠実にとらえる心。
    破天荒で芸術家気質のライバルたちと違い、ひたすら真面目に生きることで、彼はチャンスを得たのです。
    観るものを没入させる江戸時代の天才画家、円山応挙が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第479話『天地の理を知る』-【群馬県にまつわるレジェンド篇】キリスト教思想家 内村鑑三-
    2024/11/02
    明治時代、欧米化の波にのまれそうになる日本人に、いかに生きるべきかを示した思想家のレジェンドがいます。
    内村鑑三(うちむら・かんぞう)。
    その名は聞いたことがあっても、いったい何をした人なのか、どんな思想を持っていたのか、明確に答えられる人は、案外、少ないのかもしれません。
    それもそのはず、内村の生き方、思想は、混乱、混迷の連続。
    札幌農学校時代に、キリスト教の洗礼を受けますが、アメリカに留学した際、キリスト教の在り方に疑問を持ち、反感を買う。
    愛国心が人一倍ありながら、教育勅語の前で最敬礼をしなかったことが、社会的な大事件に発展。
    どこにいても敵をつくり、どんな組織に入っても周りと齟齬(そご)を深め、退職、辞任、解雇。
    転がる石のごとく、流され、ぶつかり、ひとつの場所に留まることができない、70年あまりの生涯でした。
    群馬県の高崎藩士の息子として生まれた彼は、少年時代の一時を高崎で過ごします。
    自然豊かな森や山、そして川。
    特に渓流に足をつけ、川魚を見るのが好きでした。
    素早く動く、美しい魚たち。
    ある法則性がありそうで、自由で、シンプル。
    内村少年は、そこで初めて、命がどこから来て、どこへ去っていくのか、想いを巡らせます。
    数々の試練を経て、彼が思い至った結論は、「天地の理(ことわり)」と共に生きるということ。
    ひとは、自分の価値観で生きる。
    しかし、ともすれば自らの価値観にがんじがらめになって、身動きがとれなくなる。
    そんなとき、視点をふわっと宙に放ち、天に預ける。
    人間には誰しも、天が定めた仕事がある。
    それを全うすること。
    それこそ、命をいただいたことに対する恩返しではないか。
    内村は、その考えを、二つのJから学んだのです。
    ひとつが、ジーザス、キリストのJ。
    もうひとつが、JAPAN、ニッポンのJ。
    批判、非難、誹謗中傷の嵐の中、天命を全うした賢人、内村鑑三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第478話『自分にyesと言える生き方を選ぶ』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】ロック・バンド ザ・ビートルズ-
    2024/10/26
    1966年6月30日から7月2日までの3日間、日本武道館で初めてロックのコンサートを開催した、伝説のアーティストがいます。
    ザ・ビートルズ。
    生で演奏する彼らを見ることができた、最初で最後の公演。
    実現に至るまで、多くの苦難がありました。
    神聖な武道を行うための場所で、キャーキャーと黄色い声が飛び交うコンサートなど、ありえない。
    日本武道館初代会長の正力松太郎(しょうりき・まつたろう)は、「ペートルスとかなんとかいうやつに、武道館は使わせない!」と豪語したと言われています。
    今でこそ、若いアーティストの憧れの演奏場所であり、ポップ・ミュージックのコンサートが頻繁に開催されていますが、当時は、一度クラシックのコンサートが開かれたくらいで、柔道や剣道、公的な行事以外の使用はほとんどありませんでした。
    しかし主催者側は、世界を席巻していたイギリスのロック・バンドの日本公演は、この国を象徴する会場で行いたいと必死だったのです。
    正力会長はなんとか説得できたものの、ビートルズの武道館公演に反対する勢力は激化していきます。
    街宣車に、脅迫電話。
    大規模な警備体制が求められ、1万人の観客に対し、配備された警察官は3000人。
    観客が近づけないように、アリーナ席は撤去。
    厳戒態勢の中、彼ら4人は、日航機のタラップを降りました。
    こうしておよそ100時間の彼らの滞在時間がスタートしたのです。
    ビートルズは、この年の8月にコンサート活動をいっさいやらないことを決めます。
    彼らは、表現の場をレコードに移し、破格の挑戦を続けるのです。
    1962年にデビュー、そして1970年に解散。
    わずか8年あまりの活動で、今なお世界中の人々を魅了する、ロック・バンドのレジェンド、ザ・ビートルズが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第477話『己の美学を貫く』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】建築家 山田守-
    2024/10/19
    日本武道館の設計を任された、建築界のレジェンドがいます。
    山田守(やまだ・まもる)。
    1964年に開催された東京オリンピックの、柔道会場として建設された日本武道館。
    皇居北の丸の北部、およそ1万平方メートル、延面積2万8千平方メートル、収容観客数、およそ1万人。
    当時の金額で、総工費20億円。
    日本の伝統、お家芸を世界中に知らしめる、壮大なプロジェクトでしたが、設計コンペが行われたのは、前年の夏のことでした。
    早急な図面づくりに、短い工期。
    指名されたにもかかわらず、コンペを辞退する設計士もいました。
    そんな中、山田は、コンペに参加し、勝ち抜いたのです。

    彼の構想には、明確な二つのモチーフがありました。
    ひとつは、聖徳太子が祀られていると言われる、法隆寺夢殿。
    八角形は、古代中国からの風水に習うもの。
    「8」は、仏陀誕生の日付であり、聖なる数字として大切にされてきました。
    さらに限りなく円に近いフォルムの美しさを、山田は好んでいたのです。
    彼がイメージしたもうひとつのモチーフ。
    それは、富士山。
    彼は富士山の裾野の曲線を、最高の「美」と捉えていました。
    スタッフの前で、製図版に向き合う、山田。
    彼は数値でも定規でもなく、フリーハンドで曲線を描きました。
    何度も何度も、自分がこれだと思う曲線が画けるまで、やりなおす。
    やがて、納得できる曲線が引けたとき、ようやく数値を計算。
    図面が形になっていくのです。
    しかし、翌朝、その図面を見ると、やっぱり何かが違うと、また、曲線を描く、山田。
    彼のお手本は、あくまでも、富士山の美しい裾野の曲線だったのです。
    法隆寺夢殿と、富士山。
    その二つを具現化した世界に誇る建築物、日本武道館を設計した山田守が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第476話『信じることをやめない』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】歌手 オリビア・ニュートン・ジョン-
    2024/10/12
    1976年12月1日、日本武道館で、女性ソロ・アーティストとして初の単独公演を行った、レジェンドがいます。
    オリビア・ニュートン・ジョン。
    ささやくように歌い始めた『Love Song』という楽曲が、武道館の会場内に沁みわたっていきます。
    およそ1万人のファンが待ち望んだ来日公演。
    美しく、知的で、笑顔を絶やさない、ブロンドヘアーの歌姫に、魅了されました。
    ラストには大ヒット曲『I Honestly Love You』、邦題『愛の告白』を熱唱。
    この曲でオリビアは、前年の3月、第17回グラミー賞を受賞しました。
    プレゼンターは、ポール・サイモン、そしてもうひとりは、ジョン・レノン。
    ツアー中で不在だったオリビアの代わりにトロフィーを受け取ったのは、アート・ガーファンクルでした。
    このとき、オリビア・ニュートン・ジョン、27歳。
    名実ともに、アーティストとしての絶頂期を迎えていました。
    この後、『そよ風の誘惑』や『ジョリーン』など、ヒット曲を連発します。
    1978年には、女優デビュー。
    映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演し、興行成績も大成功を収めました。
    家族にも恵まれ、順風満帆だった彼女でしたが、1992年、44歳のときに病魔が襲いかかります。
    乳がん。
    その後、73歳で亡くなるまで、闘病生活は続きました。
    彼女は自身もがんと闘いながら、オーストラリア・メルボルンに「オリビア・ニュートン・ジョンがん健康研究センター」を設立。
    多くの患者のために、奔走したのです。
    どんな苦難が押し寄せても、彼女は前を見て、笑顔を忘れませんでした。
    シンコーミュージック・エンタテイメント発行、中川泉 訳『オリビア・ニュートン・ジョン自伝』の副題は、こうです。
    Don't Stop Believin' 信じることをやめないで。
    今も聴くひとの心をなぐさめる、唯一無二のシンガー、オリビア・ニュートン・ジョンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第475話『不可能は先入観にすぎない』-【日本武道館にまつわるレジェンド篇】ボクサー モハメド・アリ-
    2024/10/05
    1976年6月26日、日本武道館は、およそ1万人の観客の熱気に包まれていました。
    伝説の「格闘技世界一決定戦」。
    映像は世界に配信され、10億人を超える人たちが、試合開始のゴングを待っています。
    アントニオ猪木の対戦相手は、世界ヘビー級チャンピオンでした。
    伝説のボクサー、モハメド・アリ。
    当時、アリは34歳。2年前にタイトルを奪還したばかりです。
    1974年10月30日、ザイール王国の首都キンシャサで行われた、WBC世界ヘビー級タイトルマッチ。
    王者ジョージ・フォアマンは上り調子の25歳。
    かなりのハードパンチャー。
    ロンドンのブックメーカーでは、11対5でフォアマン勝利、でした。
    誰もがマットに倒れこむアリを予感し、引退する彼を想像していたのです。
    新聞はこぞって、アリが勝つのは不可能だと書きました。
    しかし結果は、第8ラウンド2分58秒で、アリがまさかのKO勝ち。王座を奪い返したのです。
    世に言う『キンシャサの奇跡』。
    試合後のインタビューでアリは、カメラに向かって豪語します。
    「オレを疑った批評家たち! 見たか! オレこそが、世界一、史上最高なんだ! わかったか!」
    アリは、なぜか、「絶対無理」「不可能」という言葉に、敏感に反応しました。
    彼はこう言います。
    「不可能は、可能性なんだ。いいか、不可能っていうのは、自分の力で世界を切り開くことを放棄した、臆病者の言葉だ!」
    キンシャサの後、いくつかの防衛戦を制し、降り立った日本の地、日本武道館。
    アントニオ猪木との試合は、アリ側が決めたルールにより、プロレスの技をほとんど使えない猪木が、終始、マットに寝ころんでキックを繰り出す状態が続きました。
    試合は最終ラウンドまでビッグファイトもなく、結果、ドロー。
    消化不良を起こした会場のファン、そして全世界の視聴者から非難の言葉があびせられます。
    しかしアリの踊るようなステップは、日本人の目に焼き付きました。
    ベトナム戦争への徴兵拒否や、数々の暴言でバッシングの嵐の中にあっても、彼は生涯「闘う姿勢」を崩しませんでした。
    アリの激しい闘争心は、どこから来るのでしょうか。
    バラク・オバマが敬愛し、エミネムが影響を受けた世界チャンピオン、モハメド・アリが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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  • 第474話『継続することの大切さを知る』-【千葉県にまつわるレジェンド篇】教育家 津田梅子-
    2024/09/28
    今年20年ぶりに発行された新紙幣、その五千円札の顔になった、日本女子教育の先駆者がいます。
    津田梅子(つだ・うめこ)。
    まだ女性の教育が『良妻賢母』のためだけだった時代に、留学のための「日本婦人米国奨学金」を創設したり、女子英学塾、のちの津田塾大学を設立するなど、梅子は、女性の社会進出を推進するさまざまな取り組みに一生を捧げました。
    彼女の父、津田仙(つだ・せん)は、下総国佐倉藩、現在の千葉県佐倉市に生まれ、日本の近代農業の発展に尽力しました。
    さらに福沢諭吉らと共に、アメリカに留学。
    欧米の文化にも精通した知識人でした。
    しかし、そんな先進的な津田仙であっても、姉の琴子(ことこ)に次いで梅子が生まれたとき、こう言い放ったのです。
    「なんだ、また、女が生まれたのか、今度は男だと思っておったのに、後継ぎにもなりはしない。
    つまらん! もう、どうでもいい!」
    梅子が生まれた1864年は、明治政府ができる4年前。
    封建制度は厳しく女性を縛り、どう生きるかより、どんな男性と結婚するかが重要だと、親に諭される時代でした。
    梅子の父も御多分にもれず、梅子の幸せは結婚にあると思いつつ、ただ、他の父親とは違う助言をしました。
    「私は20歳で留学したので、英語を習うのにとても苦労したんだ。
    語学をやるのはもっともっと若いうちがいい」
    そうして、梅子は若干6歳で、岩倉使節団に応募。
    アメリカに留学することになったのです。
    この決断が、彼女の後の人生を決定づけたのは間違いありませんが、梅子の凄さは、苦難にめげない持続力でした。
    当時、英語ができるだけでは、職は限られ、なかなか就職のあてがない状況。
    それでも女子教育の場を造りたいと決めた彼女は、文字通り東奔西走し、何度失敗しても意志を曲げなかったのです。
    女性の地位向上に邁進したレジェンド、津田梅子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
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