エピソード

  • 交わりの中で味わう神の奇跡(マルコの福音書2章1節~12節)
    2025/03/09

    序)この箇所のストーリー

    ・イエスは、彼のもとに集まった多くの人々に、イエスは、「みことば」を語って聞かせる。そこへ、四人の人が、中風の人を担いでイエスのもとにやってくる。群衆が大勢いて近づけなかったため、彼らは屋根をはがして穴を開け、彼をつり降ろした。

    ・イエスは彼らの信仰を見て「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。

    1)「彼ら」の信仰を見て

    ・ここは非常に不思議な箇所。屋根をはがす行為は大胆であり、それほどまでに病の癒しを求めていた彼らの強い思いが伝わる。イエスは、この行動を「信仰」として受け取られた。

    ・もう一つ、注目すべきは、イエスは、「彼ら」の信仰を見られたこと。通常、信仰は個人のものであり、誰かに強制されたり、マインドコントロールされたりするものではない。しかし、この箇所では、「彼ら」という共同体としての信仰が強調されている。

    2)信仰はチームプレーである

    ・信仰は個人の決断であると同時に、共同体のなかで育まれるもの。中風の人は自分では動けず、四人の助けがなければイエスのもとに行くことはできなかった。

    ・同様に、私たちも誰かの助けを受けてイエスに出会ったはず。私自身、両親の影響で信仰を持つようになったが、彼らは私に教会への出席を強制することなく、時間を共に過ごしながら聖書の話を聞かせてくれた。

    3)あえて奇跡を起こされるイエス

    ・イエスは「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。当時の人々は病を罪の結果と考えていたため、イエスは病の癒し以上に、罪の赦しが重要であることを示された。

    ・律法学者たちは「神以外に罪を赦すことはできない」と非難する。イエスは彼らの思いを見抜き、「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」と言い、中風の人を癒された。

    ・病の癒しは必須ではなかったが、信じない律法学者たちを招くために、イエスはあえて奇跡を行われた。

    結)交わりのなかで起こる奇跡

    ・私自身、何度も人生のなかで神の奇跡を経験した。しかし、明らかな奇跡を見ても信じなかった律法学者たちのように、私たちも神の奇跡に気づかなかったり、忘れてしまったりすることがある。

    ・イエスは「彼らの信仰」を見て、中風の人を癒された。私たちも一人ではイエスのもとに行けないとき、支えてくれ、多少強引にでもイエスのもとに連れて行ってくれる友が教会には備えられている。

    ・そして、私たちもまた、誰かの助け手として招かれている。このイエス・キリストの招きに、あなたはどう応えるか。お祈りしよう。

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    34 分
  • 受難の先へと進むために(マルコの福音書9章2節~10節)
    2025/03/02

    序)受難節を意義深くする「神の国の福音」

    ・「天国に行ける福音」では受難節は「イエス様ほんとにすみません」の気持ちが少し強まる程度になってしまうのではないか。

    ・「神の国の福音」へと理解が深まる時、イエス様の受難と無関係に思われた受難(年度末の苦しさ等)が繋がり始める。

    ・愛をもって苦しみを担うなら、イエス様の十字架の力の分け前に与る。

    1)「六日目」に山に登る意味

    ・「六日目」という翻訳は「六日後」の方が妥当。イエス様の行動は明らかに出エジプト記 24 章 12~16 節を意識している。

    ・イスラエルの信仰告白(契約締結)→六日後→モーセの登頂⇒ペテロの信仰告白→六日後→イエスと 3 人の弟子の登頂という並行関係

    ・「高い山」に登ることは、天に近いゆえに、神との特別な交わりを期待してのことであった。

    2)山の上での圧倒的経験

    ・太陽の光と見間違うほどの、それ以上の光がイエスの内側から放たれた。「メタモルフォーゼ(変わる)」という特別なギリシア語。

    ・モーセとエリヤは、シナイ山の上で神の栄光に接した人物であり、この場面は、その再現である。イエスその人が、主の栄光そのものである。

    ・この姿はペテロを始め当時のユダヤ人の期待していたメシアの姿

    ・「幕屋」を作るとは、恐ろしい光を和らげ、閉じ込めるためのもの。この山を新しい聖地にしてはどうかという提案である。

    ⇒この提案は却下され、代わりに神の声が響く。

    3)この出来事が意味すること

    ・ペテロだけでなく他に二人の弟子が帯同したのは、この出来事が夢幻ではなく事実・真実であることを証明するため。

    ・このタイミングでこの出来事が起こり、十字架と復活まで秘密にされ、その後、福音書によって公開されたのは「受難の先へと進むため」である。

    ⇒主イエスご自身のために:モーセとエリヤ(旧約聖書)との対話によって、受難の道を確認され、御父の「これはわたしの愛する子」という声をたましいに刻むため。存在そのものが愛されている確信なしに自分を捨てることは不可能である。受難の先に、世界全体が輝きを取り戻す御国が来る。

    ⇒弟子たちのために:「彼の言うことを聞け」とは、十字架にかかるキリストという不可解を抱えたままでも従い続けるための励まし。そして、復活のキリストに出会い、弟子たちもメタモルフォーゼし、同じ道を歩む。

    結)臨在に触れ、山を下りる~受難の先へと進むために~

    ・受難の現実に、「いつものイエス様」と降りていく先に、栄光がある。

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    36 分
  • 受難のイエスの背中を追って(マルコの福音書8章34節~9章1節)
    2025/02/23

    序)神の国を妨げているもの

    ・免疫が不具合を起こすと、自分の身体を攻撃してしまうことがある。

    ・安息日が、息苦しい日になってしまったユダヤ社会

    ・神殿が、特権階級の私腹を肥やすシステムになってしまった世界

    →「問題はローマ帝国なのだ」と考え、打倒ローマを掲げていた人々に、イエス様は「自分を捨て」「自分の十字架を負う」ことを提示する。

    1)「たましい」を救う道

    ・「いのち」プシュケー:たましいと訳され、肉体的な生死とは違う次元、ここでは精神的な「いのち」「たましい」であり、名誉や誇りという要素が含まれる。「自分のいのちを救おうと思う」→「自分の誇りを守ろうとする」という意味で読むことができる。

    ・「いのちを失う」とは、自分の大切にしてきた誇りや名誉を失うこと

    ・ローマを打倒し、自由と独立を勝ち取ってこそ「たましい」は救われるという機運が満ちた世界でイエス様の言葉は語られている。

    ・「わたしと福音のためにいのちを失う」とは、イエス様の価値観に生きるなら、これまでの誇りを失うことになるが、新しい神の民としての「たましい」を得ることになる。

    2)「たましい」が損なわれていることが問題

    ・「全世界を手に入れる」とは浅ましい野望のことではなく、全世界を治める神の国を描いている。問題は、どういう状態でそれに取り組むか。

    ・「たましいが損なわれた(いのちが失われた)」状態では、神の国は到来しない。「神のため」と言いながら、自分の名誉(私利私欲)のために生きている状態では、神の国ではなく獣の国を造ってしまうから。

    ・「たましい」がサタンに売られた状態では、どんなことも無益で、いやしがたい。イエス様時代のユダヤ当局はそうなっていた。

    ・「姦淫」は、神を愛すると言いながら、自己愛に陥ること。

    →「わたしとわたしのことばを恥じる」…イエス様の生き方や価値を否定すること。そこに救いがないことが明らかになるのが「その人を恥じます」の意味である。

    3)決定的瞬間~神殿が破壊される日~

    ・「人の子が、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るとき」、「神の国が力をもって到来しているのを見る」時とは、再臨の時では意味が通じない。これはエルサレム崩壊を暗示した表現である。(参照:マルコ 13 章)

    ・この日、ユダヤ人は「たましい」を救おうとして「いのち」を失った。

    結)受難のイエスの背中を追って従い続けよう

    ・自分を捨てるとは自虐ではなく、自分を「パイプ」の終点にしないこと。

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    46 分
  • あなたの創造者を覚えよ~あなたの若い日に(伝道者の書12章1節〜14節)
    2025/02/16

    1)あなたの若い日に

    ・12 章は伝道者(コヘレト)の言葉の総まとめである。

    ・父が子を諭すように、教師が生徒を諭すように言葉が紡がれている。

    ・未来から今日を見るなら、今日が誰にとっても一番若い日である。

    ・旧約時代の平均寿命は 40 歳~50 歳であったと言われている。

    ・「若い日」とは「わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」という年月が近づく前」である。

    ・伝道者が伝えたいことは「あなたの創造者を覚えよ」である。

    ・2 節以降はポエムの世界で、避けがたい老いの現実が描かれる。

    2)時の流れは止まらない

    ・アーモンドは春先に可憐な白い花を咲かせることから白髪をイメージさせるものと言われている。

    ・「永遠の家」とはお墓のこと

    ・6 節「銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて、滑車が井戸のそばで壊される。」は生命の象徴

    ・例外なく、この地上に命を与えられた者すべてが行き着く現実である。

    ・私たちは死をもって、この地上の歩みに一区切りつける。

    ・「人は神に帰る」ことは、すべてが終わってしまうわけではないことを暗示する。新約時代の私たちには、復活の出来事として知らされているが、旧約時代の人々には、まだ見ぬ希望であった。

    ・このような現実を前にして伝道者は「空の空。すべては空」と言う。

    3)神の命令を守り生きる

    ・「空」とはヘブル語で「ヘベル」と言い時間の短いこと、はかないことを含み「空しい」「無意味」「はかない」「不条理」などが訳語としてあてられる。しかし、悲観的な人生を投げ出した言葉ではない。

    ・「空」によって表現したいのは、人間のいのちが限られた「束の間」であるということ。だからこそ、今をしっかり生きることが教えられている。しっかり生きるとは「神を恐れよ。神の命令を守れ」である。

    ・伝道者3:22「死後どうなるのか、誰が教えてくれよう」とあり、死後どうなるかは、我々人間は知りえないと率直に述べている。それでもすべてのことが神の手の中であるという確信が「神は、善であれ、悪であれ、あらゆる隠されたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。」に込められている。

    結)「空」の中を埋められる生き方を

    ・創造者を覚えるとは創造者を愛すること=大切に思うこと、創造された自分を、創造された隣人を大切にすること。

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    33 分
  • 天に備えられた未来~教会を正し、守る礼拝~(ヨハネの黙示録4章1節~11節)
    2025/02/09

    序)黙示録の中央部分へ ~「この後必ず起こること」とは?

    ・黙示録は、これから起こる未来を教える「データブック」ではない。

    ・「この後必ず起こること」とはダニエル書 2 章 45 節を暗示し、バビロンから始まる人間の帝国が打ち砕かれ、神の国が全地に満ちるという狭い意味で理解するべきことである。参照:16 章 19 節

    ・「この後必ず起こること」を順を追って教えるものでもない。1章 19 節で「あなた(ヨハネ)が見たことを…書き記せ」と言われており「私は…見た」で幻は 40 区分に分かれている。

    ・「今あること(過去~現在)」「この後起ころうとしていること(現在~未来)」は区別できるが、分離できない。神は時間を超越するお方。

    1)幻のスタート地点:天に備えられた神の国

    ・啓示のゴールは 21~22 章であり、この天が地に降りてくること。4 章の宝石の輝きが 21 章で新しいエルサレム(全世界)に満ちる。

    ・4 章の幻は、全体として「神の国」を象徴している。

    2)神の国~御心が隈なく行われる場~

    ・「御座」=王座であり、世界を治める御心が示される場である。御座の周りには、御言葉を行う存在(稲妻、声、雷鳴、御霊)が控えている。参照:詩篇 148 篇

    ・神の御座に連なり、共に治める者として「長老(王に準じる存在)」が描かれる。神の国は神だけが王として治めるのではなく、人間が神と共に治める世界。

    ・スミルナの教会に「冠」は約束され(未来)、フィラデルフィアにはすでに与えられている(現在)。サルディスの教会の一部は「白い衣」をすでにまとっており(現在)、ラオディキアの教会の中で悔い改めるなら与えられる(未来)ので、この幻は、今と未来が重なっている。

    3)神の国~礼拝により栄光が神に帰せられる場~

    ・「四つの生き物」は、神によって造られたすべての息あるものを象徴する。(参照:詩篇 103 篇)「目でいっぱい」の表象は、眠ることのない礼拝。

    ・神の国は、すべての造られた者が、永遠に神に感謝し礼拝する場。

    ・私たちがこの地で礼拝するとき、天の礼拝をなぞるように生きる時に、神の国はこの地に見えるようになっていく。

    ・「冠を投げ出す」のは与えられた「勝利」が神のおかげであることを告白する行為であり「神に栄光を帰する」こと。

    結)礼拝によって、正され、守られる教会

    ・唯一の創造主を礼拝することは、霊肉二元論に対抗し、神々に存在の余地はないことを明確に表現する。

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    49 分
  • 教会をあきらめない愛(ヨハネの黙示録3章14節~22節)
    2025/02/02

    序)油断大敵:「自分たちは大丈夫」は危険

    ・人は神ではなく、教会は人の集まりであるから 100%大丈夫ということはないが、まったくダメでもない。堕落した私たちを見捨てないイエス様がおられる。

    1)教会が「創造の源」から遠ざかる時、教会は堕落する

    ・教会は 100%大丈夫な「アーメンである方」につながる時、与える恵みにあずかり、この世界を神の恵みで潤すことができる。

    ・しかし、信頼すべき方を見失うと、与える手を閉ざし、けちになる。

    ・「熱いか、冷たいか」は熱心さの話ではなく、役に立つかどうかの話。

    →ラオディキアの町には水源がなく、ヒエラポリスの温泉かコロサイの清水を引いて来ていたが、距離が長いため生ぬるくなっていた。

    2)教会が町に溶け込んでしまう時、教会は堕落する

    ・ラオディキアの町の三大産業は①銀行業、②医療産業(目薬)、③繊維業(黒紫色の羊毛が特産品)。そして職業と偶像崇拝、皇帝礼拝はセットになっていたから、この当時、偶像崇拝に加担せずに富むということはあり得ないことだった。

    →ラオディキアの教会の富は町と一体化した妥協の産物であることが明白

    ・それゆえ、イエス様からの評価は、見える所と真逆であった。

    ・お金持ちの教会に「買いなさい」とは、持っている富を全部手放すことになるとしても、考え直す価値のあることだということ。

    ・彼らの「行い」は、永遠の神の国にとって無価値であった。

    3)教会がイエス様を締め出す時、教会は堕落する

    ・「愛する者が叱られる」ことを心に刻もう。神の聖なる愛は、神の聖なる怒りと裏表である。怒りのない愛は、ただの甘やかしである。

    ・私たちは神の怒りにおびえるのではなく、神の愛に震えるべきである。怒りにおびえた「悔い改め」は本物にならない。

    ・「戸の外に立って叩く」人の姿は、貧しくて、物乞いをする人の姿と重なる。ラオディキアの町には裕福さの陰でそのような人たちがいたことだろう。これはイエス様が教会の中ではなく、貧しい者の側にいるという衝撃的な幻である。

    ・教会が貧しい者たちに扉を開くとき、イエスの食卓を共に囲み、神の王座に共に着く神の国が立ち現れる。

    結)耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。

    ・聖餐式において、主イエスの臨在を宣言し、信じて行うとしても、恵みにあぐらをかくような態度は戒められる。私たちに何が語られているだろうか。

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    39 分
  • 開かれた門の力(ヨハネの黙示録3章7節~13節)
    2025/01/26

    序)イエス様を信じ、困難を乗り越え、御国を目指して歩む教会

    ・「わたしの(忍耐の)ことばを守る」…箴言 7:1 の言い回しを引用しており、イエス様の忍耐によって示される知恵ある生き方を指す。

    ・「わたしの名を否む」(=イエス様を主としないあり方、行動)教会が多かった中で、真実さが保たれていたのがフィラデルフィア教会だった。

    1)「誰も閉じることのできない門」=「開かれた門」とは何なのか。

    ・黙示録は、大きな区分が区切りを迎える一つ手前で、次の区分で詳しく展開される事柄が先取りして導入される構造になっている。

    →14 章 8 節で「大バビロンが倒れた」と記され、詳細は 17 章以降展開

    →ここで提示される「門」が 4 章以降に展開されるとわかる。

    ・開かれた門の先に「御座についておられる方(父なる神)」がおられる。

    ・「門」というギリシア語は神殿の聖所と至聖所の区切り(至聖所の入口)部分を指すことができる。

    →「門」は交流の場である。フィラデルフィアの町は「東洋への門」という別名を持ち、国際交流の場所であった。一般的に、古代の門は、市場、会議、教育、裁判の場であった。

    ・「開かれた門」とは神との豊かで親密な交わりへの招きを意味する。

    2)「鍵を持つ方」に愛されている確信~開かれた門の力①

    ・「鍵を持つ」とは所有権と裁量権をもっていることを意味する。1 章では「死とよみの鍵」と記され「ダビデの鍵」と裏表の関係にある。罪をもったまま神の前に立つなら死ぬ。罪の赦しが鍵である。

    ・「サタンの会衆に属する者」とは外見はユダヤ人だが内実が神の民にあるまじき者、迫害者のこと。彼らが「足もとにきてひれ伏す」とはイザヤ書 60 章 14 節の暗示引用。イザヤ書では、異邦人がユダヤ人の足もとにひれ伏すことで、まことの神を認めるのだが、ここではその関係が逆転している。

    ・この者たちを教会に「与える」と主は言われる。それは迫害者が教会の忍耐を通して、信仰者に変えられるという約束。

    3)誘惑を退け、勝利する~開かれた門の力②

    ・「地上に住む者たち」=「地に住む者たち」と訳される「見かけ倒しの信仰者」のことを意味する。試練(誘惑)により、その本性が明らかになる。

    ・開かれた門に出入りし、神と交わり、知恵を得る者は、誘惑(よその女の企み)を見抜き、これに惑わされない。それが「試練の時には、わたしもあなたを守る」の意味。

    結)「御国の門(かど)」に勇みて昇らん!

    ・主イエスは、神を豊かに親しく知る、知恵の泉へと招いて下さる。

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    40 分
  • 今日、神の御前に立つ(ヨハネの黙示録3章1節~6節)
    2025/01/19

    序)イスラエルの七つの祭りと黙示録

    ・春の 4 つの祭りは、イエス様の初臨のみわざを示すものである。

    ・秋の 3 つの祭りは、再臨に向かうみわざを示す。仮庵の祭りは新天新地の永遠を示し、宥めの日(別訳:贖いの日・大贖罪日)が再臨を示すので黙示録には宥めの日のモチーフが行き渡っている。

    ・宥めの日はユダヤ人にとって年毎の審判の日。十日間の悔い改めが認められれば「いのちの書」に名前が残されると考えられた。黙示録はこれを神の国の完成と永遠のいのちに応用して語っている。

    1)教会が「死ぬ」とは?

    ・「あなたは生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」の「あなた」はキリスト者個人のことではなく地域教会を一人の人として見立てて語っている。個々人が霊的に「眠っている」結果、教会は死ぬ=存在目的を見失う。

    ・「目を覚ます」ことは「盗人」に警戒することに関連して語られていることから、教会の「死」は、世界の闇と向き合い、燈をともすこと、夜間警備の務めを果たしていないということ。私たちは朝をもたらすことはできないが、闇の中で無力なわけでもない。

    2)祈りを失った世界の危機

    ・「目を覚ます」ことと「祈る」ことは関係が深い。霊的に眠るとは、祈りを失うこと。祈りによって天とつながる世界に神の国は興されるが、祈りを忘れさせる力が働くのが、今の世の闇である。

    ・歴史の中で教会が始めた奉仕事業(保育園、幼稚園、学校、介護施設等)から、祈りが失われた結果、闇の力に飲まれている現状がある。

    3)「宥めの日」の目的

    ・「宥めの日」は祭司たちが「白い衣」をまとい奉仕する日である。この日は、神様の臨在の光が、神殿に維持されるために、儀式が行われた。これが原型になり、究極の宥めの日は、全世界に神の臨在が満ちる日。私たちの歩みは、すべてこの日に向かうものであり、教会はその拠点。

    ・祈る者は、祈りの答えを受け取り、祈りの答えそのものになっていく。

    結)「目覚めている者」だと慢心しないこと

    ・このサルディスの教会宛ての手紙には目覚めている「彼ら」が出て来るが、黙示録の読者とは別の存在であるかのように描かれている。これは読者にへりくだりを求め、他の信仰者の祈りの生活を敬い模範とすることを教える。

    ・誰もが「眠り」に誘われる。明日が再臨という緊張感をもって祈ろう。

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    43 分